明史卷二百十四 列傳第一百二 靳學顔

字は子愚、濟寧の人である靳學顔。嘉靖十三年の郷試に第一となり、翌年進士となって南陽推官から吉安知府を経、治績を挙げて左布政使に至った。隆慶の初めに右副都御史として山西を巡撫し、詔に応じて理財を論じた一万余言の上奏で知られる。辺兵・留都・宗室の三つを国費を食い潰す元凶とし、輪番戍守による兵の整理、銀のみを用いて銭を廃したことが豪族への蓄積と物価の下落を招いていること、銀ではなく穀を宝とし官倉・社倉を整えて富を民に蔵すべきことを説いたが、担当官の議はついにすべてを実行できなかった。のち吏部左侍郎に進んだが、髙拱の専恣を見て病と称して帰郷し、卒した。弟の學曽も山西副使として治績が知られた。

年表(2件)

出自と山西巡撫

  • 靳學顔は字を子愚といい、濟寧の人。嘉靖十三年(1534年)に郷試で第一となり、翌年(1535年)進士となって南陽推官に任じられ、廉潔公平で称された。吉安知府を経て治績が高かった。累進して左布政使となった。
  • 隆慶の初め中央に入って太僕卿となり、光祿卿に移り、まもなく右副都御史に任じられて山西を巡撫した。

理財の万言の上奏

  • 詔に応じて理財を陳べること一万余言、なかでも兵の選抜・銭貨の鋳造・穀の備蓄がもっとも切実であった。その大要は次のとおり。
  • 宋の初めの禁軍は十万、天下の諸路を合わせてもやはり十万を超えなかった。のち慶暦・治平の間に百余万に増えたが、そのころ財用は窮していなかった。本朝の辺兵は四十万で、のちに兵を増し戍を加えたとはいえ主兵には欠員が多く、宋のように当初の十倍になったわけではない。それなのに嘉靖の半ばからすでに窮乏を訴えているのはなぜか。宋は兵を増しても天下に兵を養う費用はなかったが、本朝は民で兵を養い、新軍もいっさい太倉を仰ぐ。旧餉は減らず新餉は日ごとに増える、これが第一の費えである。周の豊・鎬、漢の西都はいずれも名だけあって実はなかったが、本朝は留都を設けて官を建て衛を置き、公帑を食んでいる、これが第二の費えである。唐宋の宗室は仕官の名簿に連なるか民間に散り住むかであったが、本朝は分封して爵を列ね、農もせず仕えもせず、民の膏血を吸っている、これが第三の費えである。この三つがあって蓄えが尽きぬはずがない。
  • そのなかでもとりわけ天下の財を損なうのは兵である。鋒を冒し堅を破り旗鼓相対するのが兵の実である。いま辺兵には戦うときがあるが、内地の兵は生涯一度も敵に当たらない。盗賊が起こるたび、将となるのは陰陽・医薬の雑職か丞・貳・判・簿であり、兵となるのは郷民・里保か義勇・快壮である。北では鹽丁や鉱夫を借り、南では狼兵・土兵を借りる。これはみな内地の兵が用に足りない証拠である。輪番で戍を守る法で制限すべきで、遠くて徴発できない者や弱くて任に堪えない者は耕作や商いをさせ、その分の食を移して辺の餉に充てるとよい。班軍を免じて代価を徴し、充発を省いて贖銀を納めさせるのも、一つの変通の策である。
  • 京兵を強くするにも輪番の戍守を課すべきである。京師から宣府・薊鎮まではわずか数百里、京營の九万の卒から毎年一万を二鎮に戍らせれば九年で一巡し、苦とするほどではない。それで臆病な者も辺兵と同じく強くなる。また畿輔の卒で京の戍の欠を埋め、その部隊編成・号令・月糧・犒賞も京卒と同じにすれば、畿輔の卒はみな親兵となる。京卒が薊鎮を戍れば延綏・固原の費えが省け、宣府を戍れば宣府・大同の気勢がおのずと張る。寇が宣大の力に後ろを制せられ、前には京卒の精強が当たるとなれば、深く攻め入る事は稀になろう。
  • また臣は、天下の民が窮乏を憂えて落ち着かないのを見るが、それは布帛や五穀が足りないのではなく銀が足りないだけである。銀は寒くても着られず飢えても食えず、交易して衣食を通わせる用にすぎない。それなのになぜ銀を用いて銭を廃するのか。銭がますます廃れれば銀だけが行われ、銀だけが行われれば蓄えはますます深く隠され、銀はますます貴くなり、物はますます賤くなって、折色(銀納)の調達はますます難しくなる。豪族はその賤いうちに買い集め、貴くなったところで出す。銀は豪族に積もるほど厚く、天下に行われるほど少ない。さらに数十年を過ぎれば、どこまで行き着くか分からない。
  • 銭は泉であり、一日も無くてはならない。銭法が難しい理由として、利が元手に見合わない、民が用いたがらない、の二つが言われるが、いずれも誤りである。朝廷は山海の産を材とし、億兆の力を工とし、賢士大夫を役とするのだから、元手の費えなど何ほどのものか。民に銅と炭で罪を贖わせ、匠役は営軍から取れば、一声の指図で銭は天下に行きわたる。銭を用いたがらないのは奸猾な豪族だけである。今後は事例の罰贖、徴税、賜与、宗禄、官俸、軍餉の類をすべて銀と銭の併用で支給し、上はこれで徴し下はこれで納めれば、行われないことを憂えるに及ばない。
  • また臣は聞く、中原は辺境の根本であり、百姓は中原の根本であると。民は生涯銀が無くてもよいが、一年衣が無く一日食が無いわけにはいかない。いま担当官が寝食を忘れて追うのは銀であって穀ではない。臣はひそかにこれを憂える。国家は幽燕に都を建て、北には郡国の守りがなく、腹心・股肱として頼るのは河南・山東・江北および畿内八府の人心である。その地の人は猛々しくて命を軽んじ、動きやすくて抑えにくく、その日暮らしで蓄えが乏しい。意に満たぬことがあれば軽々しく郷里を去り、往々にして一人が事を起こせば千人が呼応する。前例はすでに何度も験されている。これを防ぐ計はただ、農を恤んでその家を繋ぎ、食を足してその身を繋ぎ、骨肉を集めてその心を繋ぐことに尽きる。
  • 試みに官倉の蓄えを調べてみて、一府につき数十万あれば会計の任にある者は枕を高くできる。三万あればなお流亡しようとする者の望みを塞ぐに足りる。もし一万に満たなければ寒心せずにいられようか。臣はひそかに、一万に満たない所が多いと思う。
  • 臣は近ごろ疏で積穀を請うて許可を得たが、担当官が力を入れず明詔に応えられないことを恐れる。あえて臣の説を敷衍して申し述べる。その一は官倉で、官の銀を出して糴うもの。もう一つは社倉で、民の穀を集めて充てるもの。官倉はよほどの豊年でなければ行えないが、社倉は中くらいの年でもみな行える。唐の義倉の開設では毎年王公以下すべてに納入があり、宋では民間の正税の額の二十分の一を取って社倉とした。これにならって推し広め、土地の習俗に即し人情に合わせ、年ごとの作柄を見て変を通じ、毎年二倉への納入を計って効果を検し、法令として定めて年々修め、豊凶に応じて収め散らす。官倉にあるものは民に大飢饉があれば振給に用い、民倉にあるものは官に大役があっても貸借を許さない。これが富を民に蔵することであり、すなわち富を国に蔵することである。
  • いま財用を論ずる者は穀の不足を憂えず銀の不足を憂える。しかし銀は実に乱を生み、穀は実に乱を鎮める。銀が足りなければ泉貨(銭)が代わりうるが、五穀が足りなければ何が代われようか。ゆえに「明君は金玉を宝とせず五穀を宝とする」というのである。聖明の御心を垂れられたい、と。
  • 疏は上がって担当官に議させたが、ついにすべてを実行することはできなかった。

致仕と弟の學曽

  • まもなく召されて工部右侍郎となり、吏部に移って左侍郎に進んだ。學顔は身を修めて潔く、髙拱が首輔として銓衡を掌り専恣がはなはだしいのを見て、病と称して帰郷し、卒した。
  • 弟の學曽は山西副使で、治績もまた知られていた。

史論

  • 贊に言う。明の中葉は辺防が緩み経費が乏しかったが、当時の任にある臣でこれに意を用いた者はまれであった。楊博・馬森・劉體乾・葛守禮・靳學顔のごときは、ほぼ経世済民の方略を担った者と言えよう。しかしその施策と建言を突きつめて行っても、一時の繕いにとどまるにすぎない。まして言っても行われきらず、行っても長続きしないのではなおさらである。それ以後、張居正がはじめて一度は引き締めたが、居正が没するとすべてが空言で処理されるようになり、そのまま滅亡に至った。その崩壊は一朝一夕の積み重ねではなかったのである。