出自と地方・漕運の職歴
- 王廷は字を子正といい、南充の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。戸部主事に任じられ、御史に移った。吏部尚書の汪鋐を弾劾する疏を上げて亳州判官に左遷された。蘇州知府を経て政績で名があった。累進して右副都御史となり河道を総理した。
- 三十九年(1560年)に南京戸部右侍郎に転じて糧儲を総督した。南京の督儲は成化以後みな都御史が領していたが、嘉靖二十六年になってはじめて戸部侍郎に兼理させることとなった。振武營の兵乱が起きると、旧制に復せという声が出て、副都御史の章煥が専任で領し、廷は南京刑部に移された。着任しないうちに、また戸部右侍郎兼左僉都御史に改まって漕運を総督し鳯陽など諸府を巡撫した。
- 当時まだ倭乱が静まっていなかったので、廷は江南は鎮守總兵官の管轄として吳淞に専駐させ、江北は分守副總兵の管轄として狼山に専駐させるよう建議し、これが定制となった。
- 淮安が大飢饉となったとき、巡按御史の朱綱とともに商税を留めて軍を養うことを上奏し、詔で厳しく叱責された。給事中の李邦義がこれに乗じて廷は融通がきかないと弾劾したが、吏部尚書の嚴訥が廷のために弁明してようやく解けた。左侍郎に転じて部の事に戻った。通州で倭を防いだ功で俸を二級加えられた。
- 南京禮部尚書に遷り、召されて左都御史となり、慎選授・重分巡・謹刑獄・端表率・嚴檢束・公舉劾の六事の施行を上奏した。
隆慶初の左都御史として
- 隆慶元年(1567年)六月、京師が長雨と出水で家屋を壊されたので、廷に御史を督して手分けして救恤に回らせた。天下の官が朝覲に集まったとき、廷は贈答を厳禁し道中の費用を按分して定め、官の不正を戒め民力を休めることを請うた。
- 帝が諸陵に参拝したとき、廷は英國公の張溶とともに留守を命じられた。中官の許義が刃物を持って人の財を脅し取り、巡城御史の李學道に笞打たれると、宦官たちが學道の早朝の登庁を待ち伏せて左掖門の外で襲撃した。廷はその状を上奏し、それぞれ戍に処するよう論じた。
張齊の獄と免官・復官
- 御史の齊康が髙拱のために徐階を弾劾したとき、廷は康は奸を懐き邪に与するもので、重く懲らしめなければ国是を定められないと述べた。帝は康を左遷し階に留任を諭したので、拱は病と称して去った。
- 給事中の張齊は、かつて辺を巡ったとき商人から金を受け取っており、事がやや漏れたので、ひそかに階の子の璠に仲介を求めたが、璠は会うことを断った。齊は恨んで康の疏の文言を拾い、あらためて階を弾劾し、階もまた病と称して去った。
- 廷はそこで齊の不正な利得を摘発して言った。齊はさきに命を受けて宣大で軍に賞を与えた際、鹽商の楊四和から数千金を受け取り、辺境の商人を恤み余鹽を改めるなどの数事を言上したが、大學士の階に阻まれた。四和が齊に迫って賄賂を取り返そうとしたので足跡がかなり露見し、齊は罪を得るのを恐れて階を攻めることにかこつけて自らを覆い隠そうとしたのだ、と。そこで齊は詔獄に下された。刑部尚書の毛愷は齊を戍に処すべきだとしたが、詔で釈放して民とした。
- 拱が再び宰相に起つと、廷はその意趣返しを恐れ、愷もまた階に引き立てられた者であったので、前後して辞職を願い出て身を避けた。給事中の周芸と御史の李純樸が齊の事を訴え、廷と愷は階の意に迎合して無実の者を罪に陥れたと述べた。刑部尚書の劉自強は、齊の科された罪には実がなく、廷と愷が法を曲げて私に従ったのだと覆奏した。詔で愷は職を奪われ、廷は民に落とされ、齊は宥されて通州判官に補された。
- 萬厯の初め、齊は不謹慎で罷免され、愷はすでに先に卒していた。浙江巡按御史の謝廷傑が、愷は身を潔くして古人の風があり、張齊を按じたために官を奪われたが、いま齊が黜けられた以上、愷が正を守っていたと知るに足ると訴え、詔で愷の官が復された。
- そこで巡撫四川都御史の曽省吾が、廷が蘇州を守ったとき人々は趙清獻になぞらえたほどで、直節と気概は終始変わらなかった、毛愷の例にならって復官させるべきだと述べ、詔でもとの官のまま致仕させることとなった。十六年(1588年)には制のとおり夫役と廩米を給され、さらに高齢のため特に安否を問う賜りがあった。翌年卒し、諡は恭節。
毛愷――刑部尚書として李芳を救う
- 毛愷は字を逹和といい、江山の人。嘉靖十四年(1535年)の進士。行人に任じられ、御史に抜擢された。洗馬の鄒守益を閑職に投じたのは不当だと論じたことで執政に憎まれ、寧國推官に左遷された。のち刑部尚書を経た。
- 太監の李芳が激しく諫めて穆宗の意に逆らい、刑部に重刑に処せと命じられたとき、愷は、芳の罪状は明らかでなく、これでは天下に公正を示すことにならないと奏し、芳は死を免れた。
- 愷は太子少保を贈られ、諡は端簡。