明史卷二百十四 列傳第一百二 馬森

出自と地方官時代

  • 馬森は字を孔養といい、懷安の人。父の俊は晩年になって子を得たが、家人が抱いて落とし死なせてしまった。俊は妻に「私が誤ったのだ」と偽って家人を罪しなかった。一年余りして森が生まれた。
  • 嘉靖十四年(1535年)の進士。戸部主事に任じられ、太平知府を経た。民に兄弟で訴え合う者がいたとき、鏡を与えて自分の顔を映させ、「お前たち二人はもう老いている。天性の情を傷つけるに忍びようか」と言うと、二人とも感じ入って泣き、礼を言って去った。
  • ふたたび江西按察使に移った。ある進士が妾に溺れて妻を殺した事件で、巡撫・巡按はその獄を手ぬるくしようとしたが、森はついに法どおり処断した。
  • 左布政使を経て、その地で巡撫右副都御史に抜擢された。中央に入って刑部右侍郎となり、戸部に移った。
  • はじめ森は江西にいたとき布政使の宋淳を推薦したが、淳はのちに南贛を巡撫して贓罪で失脚し、森は連座して大理卿に転じた。疑わしい獄をたびたび差し戻し、刑部尚書の鄭曉、都御史の周延とともに「三平」と称された。
  • 病で帰郷。南京工部右侍郎に起用され、戸部に移って倉場を督し、まもなく左侍郎に転じた。右都御史として漕運を総督し鳯陽を巡撫した。南京戸部尚書に遷った。

隆慶初の財政建議

  • 隆慶の初め北京の戸部に移った。このとき即位の詔書で天下の田租の半分が免除され、太倉の歳入は少なくて経費に足りず、京・通の二倉の備蓄もいくらもなかった。森は帳簿を精査して無駄を洗い出し、十余事を条陳して施行し、また銭穀の出入りの数を列挙して帝に節倹を勧めた。帝は手詔で処置を命じた。
  • 森は上奏した。祖宗の旧制では河淮以南の四百万で京師を賄い、河淮以北の八百万で辺を賄い、一年の収入で一年の支出をまかなえた。のち辺境に事が多く支出が増え、一度は客兵の年例が生まれ、再び主兵の年例が生まれた。当初はわずか三十万から五十万にすぎなかったのが、しだいに二百三十余万に増えた。屯田は十のうち七、八を欠き、鹽法は十のうち四、五が減り、民運は十のうち二、三が滞り、すべて年例で補っている。辺では兵馬が昔より多いわけでもなく、太倉では収入が以前より増えたわけでもないのに、費用は数倍である。加えて詔書の免除があるから、今日の窮乏は往年に輪をかけている。自分がさきに区画したのは細かな数字の算段にすぎず、目前の急をゆるめるだけで、国の大体や民の元気までは深く慮る暇がない。広く衆知を集め、廷臣それぞれに見解を述べさせられたい、と。
  • また河東・四川・雲南・福建・廣東・靈州の鹽課について上奏し、詔はいずれも請うたとおりとした。
  • 帝がかつて中官の崔敏に戸部の銀六万を出させて黄金を買わせようとしたとき、森は不可として譲らず、旧例では御札はみな内閣を経て下されるもので、司禮監が直接伝えることはないと述べ、事はやんだ。さらに珠宝を購わせようとしたときも、森は力争したが聞き入れられなかった。
  • 三年、母が老いたとして終身の養育を願い出て、駅伝の使用を賜った。のちたびたび推薦されたが起たなかった。

人柄と晩年

  • 森が主考官であったとき、夏言の婿がその門下から出たので、それを介して言に会わせようとしたが、森は断って行かなかった。嚴嵩はこれを聞いて喜んだが、森は嵩にも与せず、徐階に重んじられて引き立てられた。
  • 郷里にあっては巡撫の龎尚鵬が一条鞭法を行うのを助け、郷人は報功祠を立てた。萬厯八年(1580年)に卒し、太子少保を贈られ、諡は恭敏。