明史卷二百十四 列傳第一百二 楊博

字は惟約、蒲州の人である楊博(?–1574年)。嘉靖八年の進士。大學士の翟鑾の九邊巡視に随行して各鎮の地形と兵力を書き留め、甘肅巡撫として屯田と墩臺を興し、罕東の番族を七堡に移して州境を静めた。薊遼・宣大山西の総督を歴任し、古北口では甲冑をまとって城上に宿り、十余万騎の攻撃を四昼夜支えて撃退した。兵部尚書として世宗に「左右の手」と頼まれ、のち吏部尚書に移り、隆慶年間には髙拱に推されて吏部のまま兵事を掌り、薊昌の戦守の方略を上申した。中央と地方を四十余年出入りして終始兵事で名を知られ、髙拱が徐階を陥れようとしたときも、張居正が拱を陥れようとしたときも身を挺してとりなし、長者と称された。太傅を贈られ、諡は襄毅。子の楊俊民は戸部尚書に至った。

年表(11件)

篇首の立伝者一覧

  • 楊博(子の俊民を附す)
  • 馬森
  • 劉體乾
  • 王廷(毛愷を附す)
  • 葛守禮
  • 靳學顔(弟の學曽を附す)

出自と初任

  • 楊博は字を惟約といい、蒲州の人。父の瞻は御史をつとめ、四州僉事で終わった。
  • 嘉靖八年(1529年)の進士。盩厔知縣に任じられ、長安に移り、召されて兵部武庫主事となり、職方郎中を経た。

翟鑾の九邊巡視に随行する

  • 大學士の翟鑾が九邊を巡視したとき博を随行させた。通った先々の山川の地形、土地の風俗や人心の向背、兵士の多寡・強弱を、博はすべて書き留めた。
  • 肅州に至ると、隷属する番族数百人が道をふさいで褒賞をねだった。鑾は要求者がさらに増えて応じきれなくなることを憂えた。博は鑾に儀仗と護衛を盛大に整えさせ、諸番を轅門の外に集めさせて、天子の宰相が来たのに大挙して遠くまで出迎えなかった罪を数えたて、縛って役人に引き渡すと言わせた。諸番は並んで拝礼し罪を請うた。そこで先に来ていた者にだけ少しばかり物を賜い、残りは恐れて二度と来なくなった。
  • 鑾は帰還すると、博は大事を任せられる人物だと推薦した。

兵部での起用と甘肅巡撫

  • 濟農・諳逹が毎年辺境を侵していたころ、尚書の張瓚は一切を博に任せて処理させた。帝が夜半に手詔を下すこともあったが、博はその都度条を分けて答え、いずれも帝の意にかなった。毛伯溫が瓚に代わったとき、博は転任の順であったが、特に上奏して引き止められた。のち山東提學副使に転じ、督糧參政に移った。
  • 二十五年(1546年)、抜擢されて右僉都御史となり甘肅を巡撫した。屯田の利を大いに興し、民を募って開墾させ永久に租を課さないことを願い出た。また暇をみて肅州の榆樹泉、甘州の平川の境外にある大蘆泉などの地に墩臺を築き、龍首などの渠を掘った。
  • はじめ罕東に属する番族が土魯番の乱を避けて肅州の境上に移り住み、住民と殺し合いになっていた。監生の李時暘がこれを言上し、事は現地の長官に下された。博は金墖・白城の七堡を築き、その首長を召して一族を率いて移り住ませ、諸番七百余帳が移って州境は静まった。
  • 總兵官の王繼祖が永昌で寇を退け、鎮羌參將の蔡勲らが鎮番・山丹で戦い、三度の勝報を挙げて百四十余級を斬った。博は右副都御史に進んだ。母の喪で帰郷した。
  • 仇鸞が甘肅に鎮していたとき、總督の曽銑がこれを弾劾し、詔で逮捕・処断が命じられた。博も鸞の貪欲と欺瞞三十事を摘発した。鸞は大將軍に任じられてしばしば博を誹謗したが、帝は聞き入れなかった。

薊州・保定の経略と古北口の防戦

  • 喪が明けたとき鸞はすでに誅されており、召されて兵部右侍郎、次いで左侍郎となり、薊州・保定を経略した。
  • さきに諳逹が都城に迫ったのは潮河川から入ったためで、備えを設けよという議論が争って出たが、流れが速く険しく城を築けなかった。博は水勢に沿って石の墩を建て、守備兵を置いた。
  • 帰って京城九門の警備を統べた。当時は寇の警報のため毎年七月に兵を分けて城壁を守らせていたが、博は「寇が来たときこそ鎮静を要する。事前に自ら騒ぎ立ててどうする」と言ってその令をやめさせた。
  • まもなく總督薊遼保定軍務に移った。博は薊が京師に迫り畿内と陵寝を守る要であるとして、諸將を配し地を割り当てて防備を敷いた。

三十三年の薊鎮攻防

  • 三十三年(1554年)秋、巴圖爾および逹喇蘇の十余万騎が薊鎮を侵して長城を攻めた。帝はたいそう憂え、たびたび騎馬を遣わして博の様子を偵察させた。博は甲冑をまとって古北口の城上に宿り、總兵官の周益昌らを督して力戦した。帝は大いに喜び、緋色の豸の衣を早馬で賜い、軍を犒う金一万を下した。
  • 寇は四昼夜攻めても入れず、あわせて孤山口を攻めた。城壁に登った者が官軍に片腕を断たれ、ようやく退いて虎頭山に屯した。博は決死の士を募って夜中に火を放ち敵営を驚かせ、寇は混乱し、夜明けにはすべて去った。
  • 右都御史に進み、子に錦衣千戸の廕を得た。翌年、逹喇蘇がふたたび侵入したが益昌が撃退し、博は兵部尚書に抜擢された。防秋の功を記録され太子少保を加えられた。

嚴嵩との軋轢と宣大山西総督

  • 嚴嵩父子が権勢と利を握り、諸官庁はそれに掣肘されたが、博はすべて阻んで通さなかったので、嵩は博を恨んだ。折しも父の喪に遭って職を去った。
  • 兵部尚書の許論が罷免され、帝は博を起用して代えようとした。博は喪が明けぬとして辞退したが、帝は大同右衛の包囲が急なため、博を總督宣大山西軍務に改めた。博は喪服のまま馬を駆って関を出たが、着かぬうちに侍郎の江東らが大軍を進め、寇は引き上げた。
  • このとき右衛は六か月囲まれ、守將の王徳は戦死し、城中の秣も糧も尽きかけていたが、士は死守して二心がなかった。博は手厚くいたわり、善後策十事の施行を上奏した。給事中の張學顔の言により、博は留まって鎮撫することとなった。
  • 寇害を受けた地の租の免除を上奏し、その壮丁を義勇に編成して諸將に分属させた。博は辺境の民が車戦に慣れず寇の侵入に持ちこたえられないとして、偏箱車百輛の製造を願い出た。警報があれば右衛の車は東、左衛の車は西に出して互いに応援させるためである。
  • また大同の城壁の崩れを繕うことを急務とし、次いで銀釵驛馬の諸嶺を塞いで紫荆をうかがう路を絶ち、居庸南山に備えて陵寝と畿内をうかがう路を絶ち、陽神地の諸壁と塹を修めて山西へ入る路を絶った。大同の牛心山などの地に堡九・墩臺九十二を築き、左衛の髙山跕に接して鎮城まで通じさせ、大濠二本(各十八里)と小濠六十四を浚い、五十日で完工し、勅書と褒賞を賜った。
  • 帝はしばしば博を召し還そうとしたが辺境を気づかい、嵩に諮った。嵩はもとより博を好まず、江東に兵部の事を代行させ秋の防備が終わってからゆるゆる議すべきだと請うたので、結局召し還されなかった。秋防が終わると太子太保を加えられ、なお留まって鎮した。
  • 索巴朗および叛徒の婁徳濟らがたびたび軽騎で辺を侵したが、博は前後して計略で捕らえた。また何度も奇兵を出して寇を襲い、寇は幕営をやや遠くへ移した。そこで前總督の翁萬逹が創始した邊牆を築くことを議し、内地の民で寇に掠われていた者千六百余人を招き還した。また宣大の荒田の水利を通じ、その租を軽くすることを請い、許された。

薊遼総督から本兵へ

  • 薊遼總督に移った。秋防が終わり朝議は博を召し還そうとしたが、吏部尚書の吳鵬が承知しなかった。鄭曉が兵部を代行してこれを争い、「博が薊遼にあれば薊遼が安く、本兵(兵部尚書)にあれば九邊がともに安い」と言い、召し還されて少保を加えられた。
  • 帝は辺事を深く憂えたが、博はつねに事に先んじて備えたので、帝は左右の手のように信頼した。かつて閣臣に「博が入ってからは、朕は辺を憂えるたびにそれを博に語り、あらかじめ謀らせている」と語った。
  • 博は上言した。いま九邊のうち薊鎮が最重である。辺臣に勅して大同の寇を追い払い薊に近づけさせず、宣大の諸將には獨石から情勢を偵察させ、黄花・古北などの要害にあらかじめ備えさせ、一騎も関内に入れないことをこそ第一の功とせよ、と。帝はこれを是とした。

四十二年の牆子嶺の敗

  • 四十二年(1563年)十月、寇が大挙して薊州をうかがい、遼陽を侵すと言い触らした。總督の楊選が兵を率いて東へ向かおうとしたので、博は檄で止め、さらに自筆の書を三度送ったが、ついに従わなかった。博は机を叩いて「敗れる」と言い、急ぎ兵を徴して援軍に向かわせた。
  • 寇はすでに牆子嶺を破って通州を侵した。帝は嘆じて「庚戌の事がまた起きた」と言った。諸路の兵が前後して到着し、宣大總督の江東に文武の大臣を統べて皇城と京城を分け守らせ、鎮遠侯の顧寰に京營の兵を城の内外へ配置させた。
  • 寇は囲みを解いて東へ移り、順義・三河を蹂躙し、掠奪しつくして去った。援兵は一矢も放たず、道すがら死んだ者や落伍して傷ついた騎馬を取って首功と報告した。帝は不快で、博に「賊がまた満腹して舞い去った。これで後を懲らしめられるか」と諭し、ついに楊選を誅した。
  • 博は恐れたが、徐階が力を尽くしてかばい、帝も博の前功を思って罪しなかった。

吏部尚書と隆慶年間

  • しばらくして吏部尚書に移った。隆慶改元(1567年)にあたり、遺詔に従って建言して死んだ諸臣をすべて追贈し恤するよう請うた。
  • ちょうど群吏の考課の時期で、山西人が一人も黜けられなかったため、給事中の胡應嘉が博は同郷人をかばうと弾劾した。博は続けて疏を上げて辞職を願い出たが、いずれも慰留され、しかも弾劾者のほうが叱責された。一品として三考を満たし、少傅兼太子太傅に進んだ。
  • 帝が南海子に遊ぼうとしたとき、博は同列を率いて諫めた。御史の詹仰庇が直言のために罷免されると、博はこれを争った。屯鹽都御史の龎尚鵬が弾劾されたとき、博は留任を議して帝の意に逆らい、ついに病と称して帰郷した。尚書の劉體乾らが相次いで上奏して留任を願ったが、聞き入れられなかった。
  • 大學士の髙拱が吏部を掌ったとき、博は本兵に堪えると推薦し、詔により吏部尚書のまま兵部の事を処理した。
  • 博は薊昌の戦守の方略を陳べた。論者は城壁を守るのは怯懦で、口では聞こえがよいが実効がないと言う。しかし城壁の外で迎撃するのは害が七・利が三、城壁の内で格闘するのは利が一・害が九である。城壁によって守るのは、いわゆる先に戦地を占めて敵を待つことであり、名は守でも実は戦である。自分は總督として逹喇蘇の十万の衆を拒んだ経験から、城壁を守るべきことに疑いはない、と。あわせて応援の手順、駐守の場所、京營の処置、属夷への諭し、内治の修めなどを陳べ、帝はすべて従った。
  • 博は堂々たる体躯で、事に臨んで落ち着き、識見と度量があった。中央と地方を四十余年出入りし、終始兵事で名を知られた。

晩年と徐階・髙拱をめぐる周旋

  • 六年(1572年)に髙拱が罷免されると、博は吏部に戻り、少師兼太子太師に進んだ。翌年秋に病を発し、三度の疏で致仕を願って帰り、一年余りして卒し(1574年)、太傅を贈られ、諡は襄毅。
  • 拱が国政を握っていたころ徐階を陥れて危害を加えようとしたが、博は拱を訪ねて力を尽くしてとりなし、拱も心を動かして事はやんだ。
  • のち張居正が拱を追い落とし、罪をこじつけて陥れようとしたとき、博は毅然としてこれを争った。王大臣の獄が起きると、博は都御史の葛守禮とともに居正のもとへ行き、力を尽くしてとりなした。居正は憤って「お二人は私が髙公を手にかけて満足すると思うのか」と言った。博は「そうではありません。しかし公でなければ天意を回すことはできません」と答えた。
  • 折しも帝が守禮に都督の朱希孝と会同して訊問させると命じたので、博はひそかに策を授け、校尉に大臣(王大臣)を脅して供述を改めさせ、また拱の下僕を大勢の中に紛れ込ませて大臣に見分けさせたところ、まったく見分けられず、事の真相が明らかになった。人々はこれによって博を長者と称した。

楊俊民――戸部尚書としての務め

  • 子の俊民は字を伯章といい、嘉靖四十一年(1562年)の進士。戸部主事に任じられ、禮部郎中を経た。
  • 隆慶の初め河南提學副使に移り、萬厯の初めに大僕少卿を経た。父の博が致政すると付き添って帰郷し、のち旧官に起用され、累進して兵部左侍郎となり部の事を代行した。
  • 徹哩克の襲封を議したとき、俊民は、和議はにわかに罷めるべきでなく、内には守備を修め、外には西部の者に巣に戻りきるよう強く求め、交易額を定めて濫りな要求をさせないだけでよい、と述べ、議はそれで定まった。
  • 戸部尚書に進み倉場を総督した。十九年(1591年)に部の事に戻った。河南が大飢饉となり人が人を食う有様となったので、銀と米をそれぞれ数十万ずつ出すことを請うた。処置が遅いと批判する者があり、みずから弾劾して罷免を求め、六度疏を上げたが許されなかった。
  • 小人どもが競って鉱山の開発を請うたとき、俊民は争ったが容れられなかった。税使が四方に出て天下は騒然となり、当時これを俊民の責めとする声があった。
  • 在任のまま三度の考課を経て太子太保を累加され、官にあって卒し、少保を贈られた。のち東征の兵糧輸送の功を叙して少傅兼太子太傅を贈られた。