明史卷二百十二 列傳 俞大猷・戚繼光・劉顯・李錫・張元勲

篇首の立伝者一覧

  • 俞大猷(割注に附伝として盧鏜・湯克寛)
  • 戚繼光(割注に附伝として弟の繼羙・朱先)
  • 劉顯(割注に附伝として郭成)
  • 李錫(割注に附伝として黄應甲・尹鳯)
  • 張元勲

俞大猷――出自と兵学の修業

  • 俞大猷は字を志輔といい、晉江の人。若い頃から読書を好み、王宣・林福について『易』を学び、蔡清の学統を受け継いだ。
  • さらに趙本學が『易』によって兵家の奇正・虚実の理を敷衍していると聞き、あらためて入門してその学を受けた。「兵法の数は五から起こる。人の身に五体があるのと同じで、百万の兵であっても一人の身のように動かせる」と語ったという。
  • 李良欽については剣術を学んだ。家は貧しく再三窮乏したが、気持ちはいつも晴れやかであった。父が死ぬと諸生の身分を捨て、世襲の百戸職を継いだ。

俞大猷――嘉靖初期の任官と上書による失脚

  • 嘉靖十四年(1535年)の武科の會試に合格し、千戸に任じられて金門の守禦にあたった。金門は軍民の訴訟が騒がしく治めにくい土地だったが、大猷は礼譲をもって導いたので訴訟は衰えて止んだ。
  • 海寇がしきりに起こるので監司に上書してその対策を論じたところ、監司は怒って「一介の小校が上書などできるか」と言い、杖罪に処して職を奪った。
  • 尚書の毛伯温が安南征討にあたると、また上書して方略を述べ従軍を願い出た。伯温はこれを非凡と見たが、出兵が取りやめになったため用いられずに終わった。
  • 二十一年(1542年)、諳逹が大挙して山西に侵入し、天下に武勇の士を挙げるよう詔が下った。大猷は廵按御史のもとへ行って自薦し、御史はその名を上申した。兵部では毛伯温が尚書であったので、大猷を宣大總督の翟鵬のもとへ送った。翟鵬が召見して兵事を論じたところ、大猷はしばしば鵬の説を論破した。鵬は「私は武人としてあなたを遇すべきではなかった」と詫び、堂を下りて礼を尽くしたので一軍が驚いた。しかしそれでも用いることはできず、大猷は辞して帰った。
  • 毛伯温は大猷を汀漳の守備に用いた。武平に赴任すると讀易軒を建てて諸生と文会を開き、あわせて日々武士に撃剣を教えた。海賊の康老を連破し、捕虜と斬首あわせて三百餘人。署都指揮僉事に抜擢され、廣東都司の僉書となった。

俞大猷――新興・恩平の峒賊と安南・海南の平定

  • 新興・恩平の峒賊、譚元清らがたびたび叛いたので、總督の歐陽必進はこれを大猷に委ねた。大猷は良民に自衛させたうえ、自ら数人を率いて賊の峒をあまねく回り、禍福を説き、さらに撃剣を教えた。蘇青蛇という猛虎を素手で組み伏せるほどの者がいたが、大猷は策を用いてこれを斬り、賊はいよいよ驚いた。何老猫の峒へ赴いて侵奪した民田を返させ、頭目数人を降らせ、二邑は平穏になった。
  • 二十八年(1549年)、朱紈が福建を巡視して大猷を備倭都指揮に推薦したが、安南が侵入してきたため必進が上奏して留めた。
  • これより先、安南都統使の莫福海が死に、子の宏瀷は幼かった。大臣の阮敬は婿の莫敬典を立てようとし、范子儀は一味の莫正中を立てようとして互いに殺し合った。正中は敗れて百餘人を連れて帰順し、子儀は残兵を集めて海東へ逃れた。ここに至って子儀は宏瀷が死んだと偽り、正宗を迎えて立て、欽州・亷州などを略奪した。嶺海は騒然となり、必進は大猷に討伐を命じた。
  • 大猷が亷州へ馳せつけたとき賊はまさに城を攻めていたが、水軍がまだ集まっていなかったので数騎を遣わして降伏を諭し、大軍が来ると言い触らした。賊は真意をはかりかねてはたして囲みを解いた。まもなく水軍が到着し、冠頭嶺に伏兵を置いた。賊が欽州を侵すと、大猷はその船を奪い、数日追撃して子儀の弟の子流を生け捕り、千二百級を斬った。海東の雲屯まで追い詰め、浤瀷に子儀を殺させ、その首を箱に納めて献上させた。
  • 事が平らぐと、嚴嵩がその功を抑えて叙されず、銀五十兩を賜っただけであった。
  • この年、瓊州五指山の黎那燕が感恩・昌化の諸黎を語らって共に叛いた。必進はまた大猷に討たせ、朝議で崖州に叅將を置くことになると大猷をこれに任じた。廣西副將の沈希儀の諸軍と合わせ、賊五千三百餘を捕らえ斬り、三千七百人を降らせた。
  • 大猷は必進に「黎もまた人である。数年に一度叛き、一度征伐するというのが上天が人を生んだ意であろうか。城を築き市を設け、漢法をまじえて治めるべきだ」と説き、必進はその言を容れた。大猷は単騎で峒に入って黎と盟約を定め、海南はそれで安定した。

俞大猷――浙東・蘇松の倭寇との戦い

  • 三十一年(1552年)、倭賊が浙東を大いに騒がせ、大猷を寧波・台州諸郡の參將に移す詔が下った。賊が寧波昌國衛を破ると大猷はこれを撃退した。賊はさらに紹興臨山衛を陥れ、松陽まで略奪して回った。知縣の羅拱宸が力戦して防ぎ、大猷は海上で邀撃して斬獲が多かったが、けっきょく失態を問われて俸給を停められた。まもなく海上に賊を追って船五十餘隻を焼き、俸給はもとに復した。
  • 二年後(三十三年・1554年)、賊が寧波の普陀に拠ったので大猷は将士を率いて攻めた。半ばまで登ったところで賊が突出し、武舉の火斌ら三百人が殺された。罪を負ったまま賊を討つことを命じられたが、ほどなく吴淞所で賊を破り、前罪を除く詔が下って銀と絹を賜った。
  • 賊が健跳所から入って略奪すると大猷は連戦してこれを破り、まもなく湯克寛に代わって蘇松副總兵となった。率いる兵は三百に満たず、諸道の兵はまだ集まっていなかった。賊が金山を侵したとき大猷は戦って利を失った。当時、松江柘林に屯する倭は二万に及び、總督の張經が戦えと促したが、大猷は断固として応じなかった。永順・保靖の兵がようやく着くと張經に従って王江涇で賊を大破した。しかしその功は趙文華・胡宗憲に横取りされて叙されず、金山での失律を問われて為事官に落とされた。
  • 柘林の倭は敗れたものの、新たな倭三十餘艘が青村所を突き、南沙・小烏口・浪港の諸賊と合流して蘇州の陸涇壩を侵し、まっすぐ婁門に迫って南京都督の周于徳の兵を破った。賊は二手に分かれ、北は滸墅を、南は横塘を略奪し、常熟・江隂・無錫の境まで広がって太湖を出入りした。
  • 大猷は副使の任環とともに陸涇壩で賊を大破し、船三十餘隻を焼いた。また三丈浦から海へ出ようとする者を遮撃して七艘を沈め、賊は退いて三板沙に停泊した。ほどなく別の倭が吴江を侵すと、大猷と任環はまた鶯脰湖でこれを破り、賊は嘉興へ走った。三板沙の賊が民船を奪って逃げようとすると、大猷は馬蹟山まで追撃してその頭目を捕らえた。金涇・許浦・白茅港の賊がそろって海に出ると茶山で追撃して五艘を焼き、賊は馬蹟山・三板沙に退いて守ったが、将士はさらに追いついて三艘を壊した。江隂蔡港の倭も退去した。
  • 官兵が馬蹟・馬圖・寶山で分かれて撃ったとき颶風が起こり、賊船の多くが転覆した。柘林の倭も官兵に撃たれて二十餘艘を沈められた。残った賊は退いて上陸し、やがてまた船で海に出たが、大猷と僉事の董邦政が分かれて撃ち九艘を得た。賊はさらに風に遭って三艘を壊し、残る三百人が上陸して華亭の陶宅鎮に拠り、趙文華らをたびたび破った。
  • 大猷は夜、周浦の永定寺に屯し、官兵が四方から集まって包囲した。ところが柘林で風により散った賊船九艘が川沙窪に巣くい、糾合して四十餘艘となり、勢いはなお衰えなかった。巡撫の曹邦輔が大猷は賊を野放しにしていると弾劾し、帝は怒ってその世廕を奪い、死罪を認める供述書を取り立てたうえで功を立てて自ら贖わせることにした。
  • 周浦の賊は包囲が急なので夜に乗じて東北へ走り、遊撃の曹克新に邀撃されて百三十を斬られ、川沙窪の賊と合流した。諸軍は日夜賊を撃ってその巣を焼き、賊は海へ出た。大猷は副使の王崇古とともに外洋へ追い、老鸛觜で追いついて巨艦を焼き、斬獲は数え切れなかった。残賊は上海の浦東へ逃げた。
  • はじめ倭の患いが急なので、特に都督の劉逺を浙江總兵官として蘇松諸郡をも管轄させたが、数か月なすところがなかった。廷臣がこぞって大猷の才を言うので、三十五年(1556年)三月、劉逺を罷めて大猷を代わりに充てた。賊が西庵・沈莊および清水窪を侵すと、大猷は董邦政とともに撃破し、賊は陶山へ走った。詔があって世廕を返された。賊が黄浦から海へ逃げると大猷は追って破った。
  • その年の冬、徐海平定に加わった功で都督僉事を加えられた。
  • 徐海が平らぐと浙西の倭はことごとく鎮まり、ただ寧波舟山の倭だけが険に拠った。官兵が取り巻いても抜けない。このとき土兵・狼兵はすでに帰されており、川貴から調発された麻寮・大刺・鎮溪・桑植の兵六千がようやく到着した。大猷は大雪に乗じて四面から攻め、賊は死戦して土官一人を殺したが、諸軍はいよいよ競って進み、その柵を焼いた。賊は多く死に、逃げ出した者も討ち取られて、賊はことごとく平らいだ。大猷は署都督同知を加えられた。

俞大猷――岑港の役と投獄、大同での再起

  • 翌年(三十六年・1557年)、胡宗憲は汪直を策略にかけようとし、盧鏜の言を用いて交易を許そうとしたが、大猷は不可であると強く争った。汪直が誘い出されて獄に下されると、その一味の毛海峯らは舟山に拠って岑港を塞いで自守した。大猷は取り巻いて攻め、時に小勝したが、下から攻め上がるのが苦しく、先登の将士に死者が多かった。そのうえ新たな倭が大挙して到着した。
  • 朝廷が胡宗憲を厳しく督促すると、宗憲はいい加減な大言で応じた。廷臣が競って宗憲をそしり、あわせて大猷を弾劾したので、大猷と叅將の戚繼光の職を奪い、一か月以内に賊を平らげよと命じた。大猷らは恐れていよいよ攻めを強め、賊はいよいよ死守した。
  • 三十七年(1558年)七月、賊はついに岑港から柯梅へ移り、船を造り終えて海へ出て去った。大猷らは横合いから撃って一艘を沈めたが、残る賊はそのまま帆を上げて南下し、福建・広東を流れ略奪した。大猷が前後に殺した倭は四五千に及んだが、賊はほぼ平らいだとはいえ官軍は一年も城を囲み続けたことになる。宗憲もまた賊の退去を都合よしとして密かに見逃し、諸将に邀撃を督励しなかった。御史の李瑚に弾劾されると、宗憲は賊を野放しにした罪を大猷になすりつけて言い逃れた。帝は怒って大猷を詔獄に繋ぎ、再び世廕を奪った。
  • 陸炳は大猷と親しかったので、密かに自分の財を嚴世蕃に贈ってその獄を解き、塞上で功を立てさせることにした。大同巡撫の李文進はその才を知って軍事をともに謀った。大猷は独輪車を造って敵の騎馬を防ぎ、車百輛・歩騎三千で安銀堡に敵を大いに挫いた。文進がその制度を朝廷に上申し、こうして兵車營が置かれた。京營に兵車があるのはこれに始まる。文進が拜甡を襲おうとして大猷に謀ったところ、はたして大きな戦果を得た。詔があって世廕を返された。寇が廣武を略奪すると大猷はこれを迎え撃った。
  • 先に汪直平定の功を論じたとき、罪を除いて登用することが許されていた。ここに至って鎮筸に警報があると、川湖總督の黄光昇が大猷を推薦し、そのまま鎮筸叅將に用いられた。

俞大猷――張璉の乱と福建・広東・潮州の平定

  • 廣東饒平の賊、張璉が城邑をしばしば攻め落とし、長年平定できずにいた。四十年(1561年)七月、大猷を南贛へ移し、閩・廣の兵を合わせて討たせる詔が下った。当時、胡宗憲は江西をも兼制しており、璉が遠出したと知って大猷に急撃せよと命じた。大猷は「潜かに兵を出してその巣を衝き、必ず救わねばならぬところを攻めるべきだ。どうして数万の兵を一人の男の勝手な移動に付き従わせようか」と言い、急ぎ一万五千人を率いて柏嵩嶺に登り、賊の巣を見下ろした。璉ははたして救援に戻り、大猷は連破して千二百餘級を斬った。賊は恐れて出てこなくなったので、間者を使って璉を誘い出して戦わせ、陣の後ろからこれを捕らえ、あわせて賊魁の蕭雪峯を捕らえた。広東の人々がその功を横取りしたが、大猷は争わなかった。残党二万を解散させて一人も殺さなかった。
  • 副總兵に抜擢され、南贛・汀漳・惠潮の諸郡の協守となった。そのまま勝ちに乗じて程鄉の盗を征し、梁寧を走らせ、徐東洲を捕らえた。林朝曦だけは黄積山と結んだので、官軍を大挙して攻め、積山を斬った。朝曦は逃れたが、のちに徐甫宰に滅ぼされた。
  • まもなく福建總兵官に抜擢された。四十二年(1563年)、戚繼光とともに興化城を回復し、ともに海の倭を破った(詳しくは繼光の伝にある)。繼光が先登したので上賞を受け、大猷は銀と絹を賜っただけであった。この冬、南贛へ鎮を移された。
  • 翌年(四十三年・1564年)、廣東へ改められた。潮州の倭二万が大盗の吴平と犄角の勢をなし、諸峒の藍松三・伍端・温七・葉丹樓らが日々惠州・潮州の間を略奪していた。福建では程紹禄が延平を乱し、梁道輝が汀州を騒がせていた。大猷は威名で群盗を圧し、単騎で紹禄の陣営に入って峒へ帰らせ、あわせて道輝を追い返させた。二人はけっきょく他の将に滅ぼされた。
  • 惠州叅將の謝敇が伍端・温七と戦って利を失い、「俞家軍が来る」と言って脅した。端は諸酋を連れて引き上げた。ほどなく大猷がはたして到着すると、温七は捕らえられ、端は自ら縛して倭を殺して功に代えたいと願い出た。大猷は端を先駆けさせ官軍を続かせて鄒塘で倭を囲み、一昼夜で三つの巣を抜き、焼き斬ること四百餘。さらに海豐で大破した。
  • 倭はことごとく崎沙・甲子の諸澳へ走り、漁船を奪って海へ出たが、船の多くが風で沈み、逃れた二千餘人が海豐の金錫都に退いて守った。大猷は二か月囲み、賊は食が尽きて逃げようとしたが、副將の湯克寛が伏兵を置いて邀撃し、手ずからその猛将三人を斬った。參將の王詔らが続いて到着し、賊は大いに潰えた。
  • そこで潮州へ軍を移し、順次に藍松三・葉丹樓を降らせた。さらに吴平を招降させ、梅嶺に住まわせた。平はまもなく再び叛き、戦艦数百を造り、衆万餘を集めて三つの城を築いて守り、沿海の諸郡県を襲った。福建總兵官の戚繼光が不意に平を襲うと、平は逃れて南澳に拠った。
  • 四十四年(1565年)秋、平が福建を侵し、把縂の朱璣らが海上で戦死した。大猷が水軍を、繼光が陸軍を率いて南澳で挟撃し、大破した。平はかろうじて身一つで逃れ、撓平の鳯凰山に拠った。繼光は南澳に留まり、大猷の部将の湯克寛・李超らが賊の後を追ったが、連戦して利がなかった。平はついに民船を奪って海へ出た。閩廣の巡按御史がそろって上奏してこれを論じ、大猷は職を奪われた。平はけっきょく克寛に追撃されて遠くへ逃れ、以後あえて侵入しなくなった。
  • 何源・翁源の賊、李亞元らが猖獗をきわめると、總督の吴桂芳が大猷を留めて討たせた。兵十万を徴して五哨に分けて進み、大猷は間者を使って賊の一味を離間させ、自らその巣を衝いて亞元を生け捕り、捕虜と斬首あわせて一万四百、奪い返した男女八万餘人。そこで大猷の職を返し、廣西總兵官とした。

俞大猷――両広の分置、曾一本の平定、古田の役

  • 旧例では勲臣が両廣の兵を総べ、總督とともに梧州に鎮していた。帝は給事中の歐陽一敬の議を用いて両廣それぞれに大帥を置き、勲臣を罷めた。恭順侯の吴繼爵を召還して大猷を代わりに充て、平蠻將軍の印を与え、劉顯を廣東に鎮させた。両廣ともに帥を置くのは大猷と顯に始まる。
  • 伍端が死ぬと、その一味の王世橋が再び叛き、同知の郭文通を捕らえた。大猷が連破すると、その部下が世橋を捕らえて差し出した。署都督同知に進んだ。
  • 海賊の曾一本は吴平の一味である。降伏したのち再び叛き、澄海知縣を捕らえ、官軍を破り、守備の李茂才は礮に当たって死んだ。詔があって大猷が暫時廣東の兵を督して協同で討つことになった。隆慶二年(1568年)、一本が廣州を侵し、次いで福建を侵したので、大猷は郭成・李錫の軍と合わせてこれを捕らえ滅ぼした。功により右都督に進んだ。
  • 廣西古田の獞、黄朝猛・韋銀豹らは嘉靖末に二度も省城の府庫を襲い、叅將の黎民表を殺していた。巡撫の殷正茂が兵十四万を徴して大猷に属して討たせた。七道に分かれて進み、数十の巣を連破した。賊が潮水の巣の最も高い峰に拠り、十餘日攻めても抜けなかったので、大猷は兵を分けて馬浪の賊を撃つと見せかけ、密かに叅將の王世科に雨の夜に山に登って伏せさせた。夜明けに礮が鳴ると賊は大いに驚き、諸軍はよじ登って賊をことごとく殺した。馬浪の諸巣も相次いで落ち、斬獲は八千四百餘、朝猛・銀豹を捕らえ、百年の積年の寇をすべて除いた。世廕を指揮僉事に進められた。

俞大猷――晩年と人物評

  • 大猷は将として清廉で、部下を統べるに恩があり、たびたび大功を建てて威名が南方に響いた。しかし巡按の李良臣がその奸貪を弾劾し、兵部が力をつくして庇ったので、籍に帰って調用を待てとの詔となった。
  • 起用されて南京右府の僉書となったが着任せず、都督僉事として福建總兵官となった。萬厯元年(1573年)秋、海寇が閭峽澳を突き、失利の責を負って職を奪われた。ふたたび署都督僉事として後府僉書に起用され、車營の訓練を領した。三度上疏して帰郷を乞い、没した。左都督を贈られ、諡は武襄。
  • 大猷はすぐれた節操を抱き、古の賢豪をもって自ら期した。用兵は先に計り後に戦い、目先の功を貪らず、忠誠をもって国に報い、老いていよいよ篤かった。赴任した先には大きな功績があり、武平・崖州・饒平はいずれも祠を建てて祀った。
  • 譚綸がかつて書を贈って言った。「節制の精明では公は綸に及ばず、信賞必罰では公は戚に及ばず、精悍で馳せ回ることでは公は劉に及ばない。しかしこれらはみな小さな才知であって、公こそは大任に堪える人だ」と。戚とは戚繼光、劉とは劉顯である。
  • 子の咨臯は福建總兵官となった。

盧鏜(附伝)――浙東・江北での抗倭

  • 盧鏜は汝寧衛の人。嘉靖年間に世廕によって福建都指揮僉事を歴任し、都御史の朱紈に用いられた。紈が自殺すると鏜も死罪と判定されたが、まもなく赦された。もとの官のまま福建で備倭にあたり、都指揮に遷った。
  • 嘉興で賊を撃って敗れ、責めを負って罪を負ったまま任にあたった。まもなく參將に抜擢されて浙東の沿海諸郡を分守し、副將の大猷とともに王江涇で賊を大破した。ついで保靖の土兵および蜀将の陳正元の兵を督して張莊で賊を撃ち、その塁を焼いた。後港まで追撃したところで賊に敗れた。
  • 賊が台州の外海に出没すると、都指揮の王沛が大陳山でこれを破った。賊が山に登ると官軍はその船を焼いた。鏜は賊の巣に押し寄せてその酋の林碧川らを捕らえ、残る倭をすべて滅ぼした。別の賊が諸県を略奪して指揮の閔溶らが敗死すると、鏜は職を奪われて罪を負ったまま任にあたった。
  • まもなく推薦により協守江浙副總兵に抜擢された。賊が仙居を陥れて台州へ向かうと、鏜は彭溪でこれを破った。そして胡宗憲とともに徐海を滅ぼす計を謀った。宗憲が汪直を招くと、鏜もまた日本の使者の善妙を説いて直を捕らえさせた。直は日本と二心を抱いたということでけっきょく誅された。
  • 倭が江北を侵すと鏜は馳せ援けて破り、また倭に偽装した二十餘艘の賊を敗った。賊が三沙に船を集めてまた流れ略奪した。江北巡撫の李遂が鏜を賊放置で弾劾した。鏜はすでに都督僉事に抜擢されて江南浙江總兵官となっていたが、職を奪われたまま任にあたった。通政の唐順之の推薦でもとどおり復職した。
  • まもなく汪直誅殺の功で都督同知に進んだ。倭がまた浙東を侵すと水陸十餘戦して千四百餘級を斬った。總督の宗憲が掃討完了と報告し、鏜はまた俸を増され金を賜った。
  • 鏜の抜擢はすべて宗憲によるものだったので、宗憲が失脚すると給事中の邱橓が鏜の八つの罪を弾劾し、逮捕・処分のうえ免職・帰郷となった。
  • 鏜には将としての謀略があった。倭の難が起こった当初、諸将はみな風を望んで潰走したが、ひとり鏜と湯克寛だけが敢えて戦い、名は俞・戚に次ぐと言われた。

湯克寛(附伝)――江南から薊鎮まで

  • 湯克寛は邳州衛の人。父の慶は嘉靖年間の江防總兵官。克寛は世廕を承けて都指揮僉事を歴任し、浙江參將に充てられた。倭が温州を侵すと撃破した。
  • 別の賊が嘉興の属邑を侵し、克寛は海鹽に至って包囲されたが、叅政の潘恩らとともに防ぎ、賊は落とせず焼き略奪して去った。ほどなく乍浦城が陥ち、賊は奉化・寧海まで略奪して回った。克寛は追って独山の民家に囲み、火を放って焼き、賊の半ばが死に、残りは囲みを破って逃げた。
  • 当時、沿海は倭の患いが多かったが将士に紀律がなく、賊が来ればすぐ逃げるので、大将を置いて江淮を統制させる議が起こった。そこで克寛を副總兵として金山衛に駐屯させ、海防の諸軍を提督させた。
  • 倭三百人が崇明の南沙に停泊すると、克寛は僉事の任環とともに攻めて敗績した。賊が寶山へ船を移すと追って南家觜で破った。賊は嘉定・上海のあたりへ転じた。弾劾されて官を奪われ従軍した。
  • 倭二千餘が分かれて蘇松を略奪すると、克寛は採淘港で迎え撃ち八百餘級を斬った。都御史の王忬が推薦して浙西參將とした。嘉興・湖州で賊に遭ってまた利を失い、白衣のまま賊を討てと詔された。
  • 總督の張經が柘林の賊を衝く議を立て、克寛に廣西の土兵を率いて乍浦に屯し、副將の大猷らと犄角させた。王江涇で大戦し、二千級を斬った。ところが趙文華が張經を弾劾し、克寛の「倭を野放しにして飽かせたまま逃がした」という言に惑わされたとしたので、克寛もあわせて逮捕・訊問され死罪と判定された。久しくして赦された。
  • 廣東で用兵があると、軍前に赴いて功を立てるよう命じられた。大猷に従って海豐で倭を大破し、世廕を返された。ほどなく惠潮㕘將となり、また大猷に従って吴平を破った。平がまもなく勢いを盛り返したとき、克寛はすでに狼山副總兵に抜擢されていたが、留まって賊を討てと命じられた。ほどなく陽江の烏豬洋で破った。平は窮して安南へ走った。都御史の吴桂芳が安南に協同討伐を命じ、克寛に水軍を率いて合流させ、萬橋山の下で平を挟撃し、その船を焼き、四百人を斬った。平は遠くへ逃げた。
  • 克寛は署都督僉事に進み、廣東總兵官となった。曾一本が海豐・惠來のあたりを突くと、克寛は招撫を唱えて潮陽の下澮の地に住まわせた。まもなく民の反乱を招き、一本もまた叛いた。詔があって克寛を逮捕して訊問したが、まもなく赦され、薊鎮に赴いて功を立てることになった。
  • 萬厯四年(1576年)、綽哈が古北口に侵入して略奪したので、克寛は參將の苑宗儒とともに追って塞を出たところ、伏兵に遭って戦死した。

戚繼光――出自と浙江での抗倭

  • 戚繼光は字を元敬といい、代々登州衛指揮僉事の家柄。父の景通は都指揮を歴任し、大寧都司を署理し、入って神機の坐營となり、操行があった。
  • 繼光は幼くして倜儻とし、非凡の気を負い、家は貧しかったが読書を好み、経史の大義に通じた。嘉靖年間に父の職を継ぎ、推薦により署都指揮僉事に抜擢されて山東で備倭にあたり、浙江都司の僉に改められ、㕘將として寧波・紹興・台州の三郡を分担した。
  • 三十六年(1557年)、倭が樂清・瑞安・臨海を侵したが、繼光の救援は間に合わなかった。道が塞がっていたためとして罪は問われなかった。まもなく俞大猷の兵とともに岑港で汪直の残党を囲んだが久しく落とせず、免官のうえ罪を負ったまま賊を討つことになった。やがて倭は逃れ、別の倭がまた台州を焼き略奪した。給事中の羅嘉賔らが繼光は功がなく、しかも外国と通じていると弾劾し、まさに取り調べにかかっていたが、汪直平定の功で復官し、台州・金華・嚴州の三郡の守備に改められた。
  • 繼光は浙江に来たとき、衛所の軍が戦に習熟していないのを見た。いっぽう金華・義烏の風俗は剽悍で知られていたので、三千人の召募を願い出て撃刺の法を教え、長短の兵器を交互に用いさせた。これにより繼光の一軍は特に精強となった。また南方には沼沢が多く騎馬の追撃に向かないので、地形に応じて陣法を定め、歩伐を吟味して便利にし、戦艦・火器・兵械のいっさいを精選して作り直した。戚家軍の名は天下に知られた。
  • 四十年(1561年)、倭が桃渚・圻頭を大いに略奪した。繼光は急ぎ寧海へ向かって桃渚を扼し、龍山で破り、鴈門嶺まで追った。賊は逃れて虚に乗じて台州を襲ったが、繼光は手ずからその頭目を殲し、残賊を𤓰陵江に追い詰めてことごとく死なせた。圻頭の倭がまた台州へ向かうと、仙居の道で邀撃し、逃れた者はなかった。前後九戦してすべて勝ち、捕虜と首級は一千餘、焼死・溺死した者は数え切れなかった。總兵官の盧鏜、參將の牛天錫もまた寧波・温州で賊を破り、浙東は平らいだ。繼光は位を三等進められた。
  • 閩・廣の賊が江西に流れ込むと、總督の胡宗憲が繼光に援けて撃たせ、上坊の巣で破った。賊は建寧へ走り、繼光は浙江へ帰った。

戚繼光――福建の倭寇平定と興化の回復

  • 翌年(四十一年・1562年)、倭が大挙して福建を侵した。温州から来た者は福寧・連江の諸倭と合流して壽寜・政和・寜徳を攻め落とし、廣東の南澳から来た者は福清・長樂の諸倭と合流して元鐘所を攻め落とし、龍巖・松溪・大田・古田・莆田にまで及んだ。
  • このとき寜徳はすでにたびたび陥落しており、城から十里のところに横嶼があった。四面が水で道は険しく狭い。賊はその中に大営を構え、官軍は敢えて攻めず、にらみ合ったまま一年を越えた。新たに来た者は牛田に営し、酋長は興化の東南に営して互いに声援しあった。閩中は連日急を告げた。
  • 宗憲がまた繼光に討伐を命じた。まず横嶼の賊を撃つにあたり、兵士一人ずつに草一束を持たせて濠を埋めて進み、その巣を大破して二千六百を斬った。勝ちに乗じて福清に至り、牛田の賊を破ってその巣を覆した。残賊が興化へ走ると急追し、夜の四鼓に賊の柵に至り、六十の営を連ねて抜き、千数百級を斬った。夜明けに入城すると興化の人ははじめて知り、酒と労いが絶えなかった。
  • 繼光は軍を返して福清に至り、東營澳から上陸してきた倭に遭って二百人を撃ち斬った。劉顯もまたたびたび賊を破り、福建の宿寇はほぼ尽きた。そこで繼光は福州に至り、戦勝の酒宴を開いて平逺臺に石を刻んだ。
  • 繼光が浙江に帰ったのち、新たに来る倭が日ごとに増え、興化城を一か月にわたって囲んだ。劉顯が兵八人に書状を持たせて城中へ遣わしたところ、衣に「天兵」の二字を刺してあった。賊はこれを殺してその衣を着、守将をだまして城内に入り、夜に閂を斬って賊を引き入れた。副使の翁時器、叅將の畢髙は逃げのび、通判の奚世亮が府事を代行していて殺された。焼き略奪して城は空になり、賊は二か月留まったのち平海衛を破ってそこに拠った。
  • はじめ興化が急を告げたとき、帝はすでに俞大猷を福建總兵官とし、繼光をその副としていた。城が陥ちたとき、劉顯の軍は少なく城下に塁を築いたまま敢えて攻めず、大猷もまた攻めようとせず、大軍を合わせて困らせようとした。
  • 四十二年(1563年)四月、繼光が浙江の兵を率いて到着した。そこで巡撫の譚綸が、繼光に中軍を、顯に左を、大猷に右を率いさせ、平海で賊を合わせ攻めた。繼光が先登し、左右の軍が続き、二千二百級を斬り、掠われた者三千人を取り返した。綸が功を上申するに繼光を首とし、顯・大猷をこれに次いだ。帝は郊廟に報告して謝し、大いに叙賞を行った。繼光は先に横嶼の功で署都督僉事に進んでいたが、ここに至って都督同知に進み、千戸の世廕を与えられ、そのまま大猷に代わって總兵官となった。
  • 翌年(四十三年・1564年)二月、倭の残党がまた新たな倭一万餘を糾合して仙遊を三日囲んだが、繼光は城下でこれを撃破し、さらに王倉坪まで追って破り、数百級を斬った。残りの多くは崖谷に墜ちて死んだ。生き残った数千は漳浦の蔡丕嶺に拠った。繼光は五哨に分け、自ら短兵を持って崖を伝って上り、数百人を捕らえ斬った。残賊は漁船を奪って海へ出て去った。
  • 久しくして倭が浙江から福寧を侵すと、繼光は叅將の李超らを督して撃破し、勝ちに乗じて永寧の賊を追って三百餘を斬った。まもなく大猷とともに南澳で吴平を撃退し、続いて未平定の残党を撃った。
  • 繼光は将として号令が厳しく、賞罰に信があり、士に命令に従わない者はなかった。大猷とともに名将とされたが、操行は大猷に及ばず、果毅では大猷に勝った。大猷は老将で慎重を旨としたのに対し、繼光は疾風雷電のように動いてしばしば大寇を挫き、名はさらに大猷の上に出た。

戚繼光――薊鎮への転出と練兵の上疏

  • 隆慶初め、給事中の吴時來が薊門に警報が多いとして大猷・繼光を召して辺兵の訓練に専念させるよう請うたが、部議では繼光だけを用いることになり、神機營副將に召された。譚綸が遼薊の督師となると、部兵三万を集め、浙兵三千を徴し、もっぱら繼光に属して訓練させるよう請い、帝は許した。
  • 二年(1568年)五月、都督同知として薊州・昌平・保定の三鎮の練兵事を総理するよう命じられ、總兵官以下はことごとくその節制を受けた。鎮に至って上疏し、薊門の兵は多いようで実は少ないと論じ、七つの害を挙げた。
  • 第一に、もとからある七営の軍は戦のことに習熟せず末技を好み、壮健な者は将門に使役され、老弱だけが員数を埋めていること。
  • 第二に、辺塞は延々と続くのに設置がきわめて乏しく、使客が絶えず往来して、日々送迎に追われ、叅將・遊撃は駅使のようになり、営塁は宿屋のようになっていること。
  • 第三に、寇が来ても調発に法がなく、遠道から期日に駆けつけて兵は倒れ馬は斃れること。
  • 第四に、塞を守る兵は取り締まりが明確でなく、行伍が整わないこと。
  • 第五に、陣に臨んで騎兵が馬を使わず、かえって歩兵として使われること。
  • 第六に、家丁が盛んで軍心が離れていること。
  • 第七に、兵を配置するのに要衝と緩地を選ばず、備えが多いために力が分散すること。
  • この七害を除かなければ辺備は整わず、そのうえ士卒を訓練しない失が六つ、訓練しても益がない弊が四つあるとした。
  • 訓練しないとは、まず、辺の頼るところは兵、兵の頼るところは将であるのに、いま将の恩威・号令はその心を服させるに足らず、部隊編成と旗号は力を揃えるに足らず、緩急に使いにくいこと(一)。
  • 火器がありながら使えないこと(二)。
  • 土着の者を捨てて訓練しないこと(三)。
  • 諸鎮から入衛した兵が自分の統属でないことを嫌い、まるで紀律がないこと(四)。
  • 班軍と民兵が四万人に及びながら各人が別々の心を抱いていること(五)。
  • 練兵の要は先に将を練ることにあり、いま武科に意を注ぎ多方面から保挙しているのは良いようだが、これは将を選ぶことであって将を練る道ではないこと(六)。
  • 訓練しても益がないとは、いまや一営の兵で礮手となる者が常に十のうち大半で、五種の兵器を交互に用い、長をもって短を衛り短をもって長を救うという兵法を知らないこと(一)。三軍の士がそれぞれ自分の技だけに専念し、鉦鼓・旗幟を蓄えていながらいま用いていないこと(二)。弓矢の力が寇より強くないのにそれで勝とうとしていること(三)。教練の法にはもともと正道があり、見た目が美しければ実用にならず、実用ならば見た目は美しくないものだが、いまはことごとくその実がないこと(四)。
  • さらに言う。兵の形は水に象り、水は地によって流れを制し、兵は地によって勝を制す。薊の地形は三つある。内地百里以南の平原広漠の地、辺境近くの半ば険しく半ば平らな地、辺外の山谷が狭く林が繁茂した地である。寇が平原に入れば車戦が有利、辺境近くでは騎戦が有利、辺外では歩戦が有利で、この三つを交互に用いてこそ勝を制せる。いま辺兵は騎馬に習熟しているだけで山戦・林戦・谷戦の道に習熟していない。これができるのは浙兵だけである。願わくは浙東の殺手・礮手それぞれ三千を賜り、さらに西北の壮士を募って騎兵五枝・歩兵十枝を満たし、もっぱら自分に訓練させ、軍中の必要は状況に応じて調達させていただきたい――と。
  • また、自分の官は新設のもので諸将は無用の贅物とみなしており、これでは手腕を振るいようがないと述べた。
  • 章は兵部に下された。兵部は、薊鎮にはすでに總兵がいるうえ總理を置いたので事権が分かれ、諸将の多くが様子見をしている、總兵の郭琥を召還して繼光に専任させるべきだと言った。そこで繼光を總兵官として薊州・永平・山海の諸処を鎮守させ、浙兵の調発は取りやめとなった。吴平を破った功が記録されて右都督に進んだ。寇が青山口に入ると防いで撃退した。

戚繼光――敵台の建設と車営の創設

  • 嘉靖以来、辺の牆は修理されていたが墩臺は建てられていなかった。繼光は塞上を巡って敵臺の建設を議し、その大要を述べた。薊鎮の辺垣は二千里に延び、一か所の瑕があれば百か所の堅固も瑕となる。近年は毎年修めては毎年崩れ、いたずらに費えて益がない。牆をまたいで臺を築き、四方を見渡せるようにし、臺の高さ五丈、内部を三層とし、臺ごとに百人が宿し、鎧・武器・糧食を備え、戍卒に地割りして工事を割り当て、まず千二百座を建てたい――と。
  • ただし辺卒はもともと強情で、軍法で律すれば将が耐えられないので、浙人を募って一軍とし、勇敢を率先させたいと願い出た。督撫がその議を上申し、許された。
  • 浙兵三千が到着して郊外に列したとき、大雨となったが朝から日が傾くまで直立して動かなかった。辺軍は大いに驚き、これより軍令というものを知った。
  • 五年(1571年)秋、臺の工事が完成した。精堅雄壮で、二千里にわたって声勢が連なった。詔があって世廕を与えられ、銀と絹を賜った。
  • 繼光はそこで車營の設置を議した。車一輛は四人で押し引きし、戦うときは方陣を組んで騎兵・歩兵をその中に置く。また拒馬器を製し、体が軽くて便利で、寇の騎馬の突撃を防ぐ。寇が来ればまず火器を発し、やや近づけば歩兵が拒馬器を持って並んで前進し、あいだに長槍と筤筅をまじえる。寇が逃げれば騎兵が追撃する。さらに輜重營を置いてその後に従わせ、南兵を選鋒とし、入衛の兵を策応に、本鎮の兵をもっぱら戍守にあてた。節制は精明、器械は鋭利で、薊門の軍容はついに諸辺の筆頭となった。

戚繼光――北辺の安定と朶顔の帰服

  • このとき諳達はすでに通貢しており、宣府・大同以西の烽火は静まっていた。ただ小王子の後裔である士黙特が察罕の地に移り住み、弓引く者十餘万を擁して常に薊の患いとなっていた。また朶顔の呼哩狸とその兄の子の長安が士黙特と通じ、叛いたり服したりしていた。
  • 萬厯元年(1573年)春、この二寇が侵入を謀って喜峯口に馳せ、賞を求めて得られなければ殺戮と略奪をほしいままにし、塞のそばで狩りをして官軍を誘った。繼光は不意に撃ってあやうく呼哩を捕らえるところだった。その夏また桃林を侵したが志を得ずに去った。長安もまた界嶺を侵し、官軍の斬獲が多かった。辺吏が降伏をほのめかすと、呼哩は関に来て通貢を請うた。廷議で歳賞を与えることになった。
  • 翌年(二年・1574年)春、長安がまた諸口をうかがったが入れず、呼哩とともに察克圖を逼って侵入させた。繼光はこれを捕らえて帰った。察克圖は呼哩の弟で長安の叔父である。そこで二寇は部の親族三百人を率いて関を叩き死罪を請うた。呼哩は素衣を着て叩頭し、察克圖の赦免を乞うた。繼光および總督の劉應節らは議して副將の史宸・羅端を喜峯口に遣わして受降させた。みなひれ伏して拝し、掠った辺の人々を返し、刀を積んで誓いを立てたので察克圖を釈し、通貢を元どおり許した。繼光が鎮にある間、この二寇はついに薊門を侵さなかった。
  • まもなく守辺の労で左都督に進んだ。すでに敵臺を増築し、部下の十二区を三協に分け、副將一人ずつを置いて士馬を分けて訓練させた。
  • 綽哈が侵入して湯克寛が戦死したとき、繼光は弾劾されたが罪に問われなかった。久しくして綽哈が妻の徳特必濟とともに辺卒を襲って掠うと、官軍が追って破った。士黙特が遼東を侵すと繼光は急ぎ赴き、遼東軍とともに撃退した。
  • 繼光はすでに太子太保を加えられており、功を記録されて少保を加えられた。順義が封を受けて以来、朝廷は八事をもって辺臣を考課した。銭穀を積む、険隘を修める、兵馬を練る、器械を整える、屯田を開く、塩法を治める、塞馬を収める、叛党を散らす、の八つである。三年ごとに大臣を遣わして閲視し、優劣を定めた。繼光はこれによってしきりに廕と賜を受けた。

戚繼光――薊門十六年と晩年

  • 南北の名将のうち馬芳・俞大猷は先に没し、残るは繼光と遼東の李成梁だけであった。しかし薊門の守りが堅固で敵が入れなかったため、敵はみな遼へ転じた。そのため成梁が戦功をほしいままにした。
  • 嘉靖庚戌(二十九年・1550年)に諳達が京師を侵して以来、辺防はとりわけ薊が重んじられ、兵を増し餉を加えて天下を騒がせ、さらに昌平鎮を置いて大将を設け、薊と唇歯の関係とした。それでも内地は踏み荒らされ、總督の王忬・楊選はともに失律の罪で誅された。十七年の間に大将は十人替わり、いずれも罪を得て去った。
  • 繼光は鎮にあること十六年、辺備は整い、薊門は静かであった。後任者もその成法を踏襲し、数十年にわたって事なきを得た。これはまた国政を担った大臣、徐偕・髙拱・張居正が相次いで彼に信任を寄せたおかげでもある。とりわけ居正は事あるごとに彼と相談し、繼光を困らせようとする者はすぐ他所へ移した。譚綸・劉應節・梁夢龍ら諸々の督撫大臣もみな彼と親しく、動いても掣肘されることがなかったので、繼光はますます手腕を伸ばせた。
  • 居正が没して半年、給事中の張鼎思が繼光は北に向かないと言い、当国者はこれによって広東へ移した。繼光はふさぎこんで志を得ず、無理に一度赴いたが、一年余りで病と称して辞した。給事中の張希臯らがまた弾劾し、けっきょく罷免されて帰郷した。三年後、御史の傅光宅が上疏して推薦したが、かえって俸を奪われ、繼光もそのまま没した。
  • 繼光は南北を歴任してともに名声があった。南方では戦功がとりわけ盛んで、北方ではもっぱら守りを主とした。著すところの『紀效新書』『練兵事實』は兵を談じる者が今も遵用している。

戚繼美(附伝)

  • 弟の繼美もまた貴州總兵官となった。

朱先(附伝)

  • 朱先という者は嘉興の人。繼光の時代に薊鎮南兵營の叅將となり、副總兵に遷り、のちにたびたび廣東・福建の總兵官となった。
  • はじめ武挙から身を起こし、海浜の塩の密売人を募って一軍とした。胡宗憲が御史であった頃から總督となるまで、一貫して先を信任した。大小数十戦、いずれも先登し、倭を殺すことがきわめて多く、功によって都司を授けられた。宗憲が逮捕されると先は官を解いて護送に付き添い、宗憲が釈放されて帰るとようやく自分も帰った。
  • 御史が福建を按察したとき、巡撫の王詢が軍費を横領したとして先に証言を命じた。先は「私は王公の部将です。府主を誣告することはできません」と答えた。御史は怒り、先に一万金の罪を負わせて死罪と論じ、獄に繋いだ。八年を経てようやく冤が晴れた。
  • 萬厯の初め、推薦により圜山把總に起用され、登閫の帥まで歴任したが、年老いたとして辞して帰り、再び起用されたが赴かなかった。
  • 先は将として胆力と知恵があり、節を磨いて公を第一とした。宗憲と王詢の二件での身の処し方は、当時の議論に国士の風があると評された。

劉顯――出自と江北の抗倭

  • 劉顯は南昌の人。生まれつき膂力が人並みはずれ、いくらか文義に通じていた。家が貧しく落魄して叢祠で首をくくろうとしたが、神が守って死ななかった。ひそかに蜀に入って童子の師となり、のちに戸籍を偽って武生となった。
  • 嘉靖三十四年(1555年)、宜賓の苖が乱れ、巡撫の張臬が討伐した。顯は従軍して陣に突入し、手ずから五十餘人を打ち殺し、首謀者三人を捕らえた。諸軍が続いて進み、賊はことごとく平らいだ。顯はこれによって知られ、副千戸に任じられ、財を納めて指揮僉事となった。
  • 南京の振武營が新設されたとき、兵部尚書の張鏊の推薦で召されて訓練にあたり、署都指揮僉事に抜擢され、浙江都司の僉書となった。參將に遷って蘇松を分守した。
  • 倭が江北を侵して泗州に迫ると、張鏊は顯に浦口を守らせた。顯は賊が逃げると読んで安東まで追撃した。折しも暑く、単衣で四騎を率いて賊を誘い、精鋭の甲兵を岡の下に伏せた。賊が出てきて一人を斬ったが、乗る馬が矢に当たったので下りて鏃を抜き、追ってくる者を射殺し、岡の下まで誘い込んで大破した。去るとき賊は捕らえた女子を出して将士を惑わそうとしたが、顯はことごとく役所に送った。翌日、賊が出るのをうかがってひそかにその船を焼いた。賊は敗走したが船はすでに焼けており、死者は数え切れなかった。顯は位を三等進められ、まもなく副總兵に遷って江浙の協守となった。
  • 三沙の倭がまた江北を襲い、劉家莊で包囲された。顯が精鋭数千を率いて到着すると、巡撫の李遂は江北の軍をすべて彼に護らせた。顯が部下を率いてまっすぐ突入し、諸営が続き、辰の刻から酉の刻まで戦って賊の巣を破り、白駒塲・茅花墩まで追撃して六百餘級を斬り、賊をことごとく殲滅した。ところが李遂は賊が三沙から来たのは実は盧鏜と顯の罪だとし、顯は俸給を停められた。
  • 応天巡撫の翁大立が顯の驍勇を推薦して長く任にとどめるよう請い、帝は許した。
  • 振武營の兵変ののち、諸将は姑息な扱いに終始して兵はますます驕った。給事中の魏元吉が顯を推薦し、署都督僉事としてその軍を節制させた。顯が蜀の兵五百人を連れて赴くと、一軍はおとなしくなった。
  • 閩の賊が江西に流れ込んで石城・臨川・東鄉・金谿を大いに略奪し、吏民を殺すこと万を数えた。詔があって顯が討伐に赴き、陽湖で撃破すると賊は逃れた。

劉顯――広東・福建と興化の回復

  • 四十一年(1562年)五月、廣東の賊が大いに起こり、顯を總兵官として鎮守させる詔が下った。折しも福建の倭患が厳しかったので顯は援けに赴き、叅將の戚繼光とともに賊を連破して賊はほぼ尽きた。しかし新たな倭が大挙して到着して興化城を攻め落とすと、顯は兵が少なく城に迫っても敢えて戦えなかったため弾劾され、罪を負ったまま任にあたった。
  • 賊が隙をついて平海衛を攻め取った。別の倭が福清を襲い、平海の倭と合流しようとしたので、顯と俞大猷が遮浪で合わせてことごとく殲滅した。平海の倭が逃げようとして把總の許朝光に邀撃されて敗れると、その船をすべて焼いて旧屯へ退いた。戚繼光もまた顯と大猷とともに攻めることになり、こうして興化を回復した。功を記録されて先の世職を二等進められた。
  • 江北の倭がまだ平らがず、廷議で狼山に總兵官を置いて大江の南北を統制させることになり、顯を改めてこれに任じた。顯が通州へ巡視に赴いたとき、敕書で知府以下を節制することが許されていたのに、同知の王汝言が礼を尽くさなかったので弾劾して上奏し、その秩を削らせた。
  • のち浙江へ鎮を移した。顯には将略があったが官にあって法度を守らず、巡按御史に弾劾されて任を解かれ勘問を待った。巡撫の劉㡬の推薦で為事官としてもとどおり鎮守にあたった。
  • 隆慶改元(1567年)、軍政の拾遺で弾劾されて秩を貶されたまま任にあたった。廵撫の谷中虚の推薦でもとの官に復し、貴州へ鎮を移した。
  • 廣西の㺜賊、者念父子が僭って王を称し、安順を攻め掠めたので、巡撫の阮文中が顯に討伐を命じ、五百餘人を捕らえ斬った。

劉顯――都掌蠻の平定と晩年

  • 四川巡撫の曾省吾が都掌蠻の征討を議し、顯にその地へ鎮を移させた。顯はまた弾劾されて罷免されかけたが、省吾が上奏して留めた。
  • 都掌蠻は叙州戎縣に居り、髙縣・珙縣・筠連・長寧・江安・納溪の六縣の間に介在する、古の瀘の賊である。成化のはじめに乱を起こして程信が守って平らげ、正徳年間に普法惡がまた乱を起こして馬昊が討ち平らげた。ここに至ってその酋の阿大・阿二・方三らが九絲山に拠って遠近を掠めていた。
  • その山は広大で四隅が険しく切り立ち、東北には鷄冠嶺・都都寨・凌霄峯の三つの岡があって、絶壁は数千仞。阿茍という者が凌霄峯に居て賊の耳目となり、出入りの威儀は王のようだった。
  • 省吾が討伐を議して顯に軍事を委ね、旧将の郭成・安大朝を補佐に起用し、諸々の土兵を調発して官軍と合わせ、あわせて十四万人。萬厯改元(1573年)三月、叙州に集結した。
  • 阿茍を誘って捕らえ、凌霄を攻め抜き、進んで都都寨に迫った。三人の酋は一味の阿墨を遣わして固守させ、官軍は一か月足踏みしたが、灘を掘って漕運を通し、阿墨を撃ち斬ってその寨を抜いた。
  • 阿大は自ら鷄冠を守った。顯は人を遣わして官位を餌に誘い、五哨に分けてことごとく九絲城の下に塁を築き、備えのない隙に夜半、綱を腰に巻いて登り、閂を斬って入った。夜明けに諸将がそろって到着した。阿二・方三は牡豬寨へ走って守り、郭成が鷄冠を破って阿大を捕らえ、諸軍が牡豬を攻めて方三を捕らえた。阿二は逃げたが貴州の大盤山で捕らえた。
  • 寨六十餘を抜き、賊魁三十六を得、捕虜と斬首は四千六百、地を拓くこと四百餘里。諸葛銅鼓九十三、銅の鍋・鉄の鍋各一を得た。
  • 阿大は泣いて言った。「鼓の音が大きいものは上等で、牛千頭と換えられる。次のものでも七八百。鼓を二つ三つ持てば僭して王を称せる。山頂で鼓を鳴らせば蛮がみな集まったのだ。今はもう終わりだ」と。鍋は鼎のような形で、牛一頭を入れられるほど大きく、彫刻や文様があった。諸葛亮が鼓によって蛮を鎮め、鼓を失えば蛮の運も尽きるという言い伝えがある。
  • 功を記録されて顯は都督同知に進んだ。その後、残党を討ってさらに千百餘を捕らえ斬った。
  • 都掌蠻が滅びると顯は病と称して辞職を求め、そのさい役所の妨害を理由に挙げた。詔があって顯の節制に任せることになり、顯はいよいよ志を行った。西川の番の沒舌・丢骨・人荒の諸砦を撃ってその首謀者を斬り、残る者を撫して帰った。建昌の傀厦・洗馬の諸番もみな首謀者を差し出し、西陲は安んじた。
  • 九年(1581年)冬、官にあって没した。子の綎には別に伝がある。

郭成(附伝)――広東・貴州・四川での軍功

  • 郭成は四川叙南衛の人。世職から蘇松叅將を歴任し、副總兵に進んだ。倭が通州を侵して守将の李錫に敗れ、崇明の三沙へ転じて略奪したとき、成はその船を撃ち沈め、百三十餘級を斬った。
  • 慶隆元年(1567年)冬、署都督僉事に抜擢されて廣東總兵官となった。海を渡って曾一本を追い、大戦果を挙げ、署都督同知に進んだ。
  • 叛将の周雲翔らが叅將の耿宗元を殺して賊の中に逃げ込み、平山・大安峒に屯して海豐を侵そうとした。成は南贛の軍とともに挟撃し、千三百餘級を斬り、掠われた通判の潘槐以下六百餘人を取り返し、雲翔を生け捕った。
  • 潮州の諸属邑には賊の巣が百を数えた。郭明が林樟に、胡一化が北山洋に、陳一義が馬湖に拠って二十年にわたって略奪していた。成は諸軍を督して明らを撃ち殺し、千三百餘を捕らえ斬った。
  • 四川の都掌蠻が乱を起こすと成に鎮を移す詔が下ったが、まもなく弾劾されて罷免され帰郷した。萬厯改元(1573年)、劉顯の大征にあたって成を為事官としてその副とするよう命じられ、九絲山に先登して阿大を生け捕った。もともと成の父は蛮に殺されていたので、斬った首級と生け捕った蛮を父の墓前に置き、心臓をえぐって祭った。郷人はこれを壮とした。
  • まもなく南京後府の僉書となり、出て貴州總兵官として銅仁に鎮した。成は胆力と知恵があり、苖が出て略奪するたび密かに壮士を寨に潜入させて首を取って出た。かつては自ら身をもって林の中へ入って賊を偵察した。苗は一日に何度も驚いて「郭将軍が来た」と言い、互いに戒めて敢えて侵さなかった。
  • また弾劾されて罷免・帰郷し、四川總兵官に起用された。永寧宣撫の奢效忠が死に、その妻の奢世統に子がなく、妾の奢世續の子の崇周は幼かった。前總兵の劉顯がそこで世續に宣撫の印を署させたところ、世統は怒ってその落紅寨を攻め奪い、世續は永寧へ逃げた。成は義子の郭天心を指揮の禹嘉續とともに遣わして調べさせたが、天心は世續の永寧の私邸を占拠してその財産を残らず奪い、成もまた落紅に入って奢氏九世の蓄積をことごとく掠めた。效忠の弟の沙卜はこれに抵抗して禆將三人を殺し、天心らを捕らえた。撫按がそろって成を弾劾し、下獄のうえ雲南へ流された。
  • 折しも松茂の役があり、推薦されて従軍した。成は七千人を率いてまっすぐ黄沙に至り、たびたび賊を破り、總兵官の李應祥とともに河東・河西の諸巣をことごとく平らげた。功により叅將を授けられ、また應祥とともに膩乃の諸賊を大破し、世職を二級加えられた。膩乃の一味の楊九乍がまた出て乱を起こすと、成が討ち平らげた。
  • 霍落齊が西寧を騒がせたとき、四川巡撫の李尚思は松潘に近いとして成を松林に、游擊の萬鏊を漳臘に駐屯させ、寇は敢えて迫らず、西陲は安んじた。楊應龍が叛くと成は進んで討ったが功なく、罪を負ったまま処理にあたり、まもなく官にあって没した。

李錫――曾一本の平定

  • 李錫は歙の人。代々新安衛の千戸。倭の警報にたびたび功があり、通州守備となり、揚州叅將・江北副總兵と累進した。
  • 隆慶元年(1567年)冬、署都督僉事として福建總兵官となった。海寇の曾一本が閩・廣の間を横行していた。俞大猷が廣西へ赴こうとしていたので、總督の劉燾は福建の軍と合わせて挟撃させた。一本が閩に至ると錫は海に出て防ぎ、大猷と柘林澳で賊に遭って三戦して三勝した。賊は馬耳澳へ逃れ、また戦った。
  • 折しも廣東總兵官の郭成が叅將の王詔らを率いて合流し、菜蕪澳に宿営して三哨に分かれて進んだ。一本は大船に乗って力戦したが、諸将が連破してその船を焼き、詔が一本とその妻を生け捕り、七百餘級を斬り、水火に死んだ者は万を数えた。当時、廣の寇では一本が最も強く、錫・大猷・成がともにこれを平らげたが、錫の功が最も大きかった。
  • その後、一本の残党の梁本豪がまた乱を起こして黄應甲に捕らえられたが、錫のときに比べれば力の要りようは軽かった。錫は功を論じられて署都督同知を加えられた。倭が侵入すると撃退した。

李錫――広西府江・柳州の役

  • 六年(1572年)春、征蠻將軍として大猷に代わって廣西に鎮した。平樂の府江は、桂林から梧州に至る駅路である。南北五百里にわたり、両岸は高山と深い竹林で、賊の巣が入り組んでいた。嘉靖年間に張岳が破って平らげてから、ここに至ってまた猖獗となり、知州を捕らえて重い賄賂を要求し、道路は塞がり、城門は昼も閉ざされた。
  • 大猷が討伐を議したが、罷官して去った。巡撫の郭應聘は錫と計って兵六万を徴し、㕘將の錢鳯翔・王世科、都指揮の王承恩・董龍にそれぞれ一軍を率いさせ、副使の鄭茂・金柱、僉事の夏道南に監軍させた。錫は中央にあって節制し、賊の巣数十を破り、五千餘を斬り、獞の酋の楊錢甫らはことごとく首を差し出した。功を記録されて世職を二等進められた。
  • 桞州の懐逺には猺・獞・狑・狪が入り交じって住み、なかでも猺が猛悪で、県治を侵し占め、吏民はみな郡城に寄寓するありさまだった。隆慶年間に古田の諸猺を大征したとき、恐れて命に従ったが、知縣の馬希武が着任して城壕を修繕するのに労役を厳しくしすぎたので、諸猺は希武および經厯ら五人を殺してまた叛いた。
  • 巡撫の應聘は總督の殷正茂と征討を議した。萬厯元年(1573年)正月、錫は進んで長安鎮に宿営したが、雨と雪が続いたので退いた。さらに浙東の鳥銃手、胡廣・永順の鈎刀手および狼兵十万人を徴し、㕘將の鳳翔・世科、都指揮の楊照・戚繼美、故叅將の亦孔昭・魯國賢の六道から一斉に進ませ、副使の沈子木に監軍させた。錫は自ら水軍を率いて羅江に宿営し、独りその要衝にあたった。
  • 当時、賊は板江の大洲に屯して石を積み柵を立て、ひそかに船で襲ってきたが、錫は船を伏せて破った。水陸ともに進み、鳯翔らも到着すると、賊はことごとく船で西へ逃げた。追撃して数か所の巣を連破した。賊は楓木の大山に拠り、前は堤と谷川に阻まれていた。太鼓を鳴らして騒ぎ立てて出てきたので、諸軍は奮って撃ち、別に奇兵をその後ろへ回した。賊は大いに敗走して天鵝嶺に拠った。
  • 錫は水軍で潯江を断ち、諸将を督して攻め、渠魁二人を斬った。勝ちに乗じてまた数か所の巣を破り、まっすぐ清州の界に至った。賊は数里にわたる大きな巣へ逃げ込み、崖は切り立ち、幾重にも柵を設けて官軍を拒み、弩と矢と石を雨のように降らせ、女は裸になって箕をあおり、牛・羊・犬の首を投げて呪詛した。諸軍は大声を上げてまっすぐ登り、四面から火を放って賊をことごとく殲滅した。
  • 前後に破った巣は百四十、差し出した首級は三千五百餘、捕虜や降伏した者は数え切れなかった。
  • 永福・永寧・桞城もそろって賊の被害を訴え、洛容の獞がまた典史を殺した。錫は王端に永寧を、桞照に桞城を、叅將の門崇文に永福を、亦孔昭に洛容を討たせ、自らは水軍を率いて理定江に屯して諸軍を節制した。わずか二十日で四道ともに勝報を挙げ、四千五百餘級を斬り、洛容の賊首の陶浪金らはみな誅に伏した。
  • 錫は功により秩を二等進められた。廵按御史の唐諌は、錫が一年のうちに賊の巣二百十四を破り、首功一万二千餘級を得たとして、長くその任にとどめるよう請い、帝は許した。
  • まもなく凌雲翼に従って羅旁の賊を大破し、百戸の世廕を授けられた。六年(1578年)、官にあって没した。

黄應甲(附伝)――広東の蜑戸・梁本豪の平定

  • 黄應甲という者は出自が明らかでない。隆慶年間に潯梧左㕘將として俞大猷に従い、韋銀豹を討ち平らげて秩を二等進められた。萬厯五年(1577年)、たびたび遷って浙江總兵官となり、廣東へ鎮を改めた。
  • 龍川の鮑時秀という者は、妻の杜氏に妖術があり、義都の緱嶺に拠って二十四方の大總を立て、無敵峒王と自称した。降ってのちまた叛いたが、應甲が討ち平らげた。
  • 蜑戸の蘇觀・周才雄が亡命者数千人を率いて雷州・亷州の間をほしいままに略奪し、斷州千戸の田治を殺した。應甲は五軍を並べ進めて蘇觀陞・周才雄を生け捕り、四百餘級を斬った。その一味は酋長の陳泉を縛って降った。
  • まもなく梁本豪が乱を起こした。本豪はもと曾一本の一味で、やはり蜑戸である。一本が誅されると海中に逃れて水戦に習熟し、遠く西洋と通じ、さらに倭兵と結んで助けとし、千戸を殺し通判を掠って去った。
  • 十年(1582年)六月、總督の陳瑞と應甲は謀って水軍を二つに分け、南は老萬山に駐して倭に備え、東は虎門に駐して蜑に備え、別に二車を外海の備えとし、両軍で要害を扼した。水軍が蜑の船二十艘を沈め、本豪を生け捕り、諸軍が競って進んで石茅洲で大破した。賊はまた潭洲・沙灣へ逃げ、船二百艘と倭船十艘を集めて犄角の勢をなしたが、諸将が合わせて追い、前後に千六百餘を捕らえ斬り、その船二百餘艘を沈め、降った者二千五百。帝は郊廟に報告して大いに叙賞を行い、應甲らはそれぞれ秩を進められた。
  • 他の倭が瓊崖を侵すと、應甲は二百餘を斬ってその船を奪い、ふたたび金を賜った。まもなく入って左軍府の僉となり、罷免されて帰り、没した。

尹鳯(附伝)――福建・浙江の抗倭

  • 尹鳯は字を徳輝といい、南京の人。李錫が福建に總兵であったときの歩将である。代々府軍後衛指揮同知。鳯は早くに父を失い、読書のかたわら騎射に習熟した。嘉靖年間に武科に応じ、郷試・會試ともに第一であった。
  • 署都指揮僉事に抜擢されて福建で備倭にあたり、浙江都司の僉に移り、福建㕘將に進んだ。倭が福清・南安を陥れ、船団を連ねて海へ出ると、鳯は邀撃して七艘を沈め、外洋まで追い、滸嶼・東洛・七礁で連戦して二百人を捕らえ斬った。梅花洋で倭を撃って走らせ、横山まで追って二百六十を捕らえ斬った。大小あわせて十数戦、内地はこれによってやや安んじた。
  • 浙江都司の掌に改められたが、病と称して帰郷した。隆慶の初め、もとの官で福建に臨み、錫に従って曾一本を平らげた。萬厯の初め、累進して署都督僉事となり、京城の巡捕を提督したが、まもなく職を辞して帰った。

張元勲――出自と広東諸賊の平定

  • 張元勲は字を世臣といい、浙江太平の人。世職を継いで海門衛新河所の百戸となった。沈毅で謀があった。倭の警報にあたって戚繼光の麾下に属し、功があって千戸に進み、横嶼の諸賊を破るのに従い、たびたび進んで署都指揮僉事となり、福建游撃將軍に充てられた。
  • 隆慶の初め、福安で倭を破り、南路叅將に改められた。李錫に従って曾一本を破り、副總兵に進んだ。
  • 五年(1571年)春、署都督僉事に抜擢され、郭成に代わって總兵官となり、廣東に鎮守した。惠州河源の賊の唐亞六、廣州從化の賊の萬尚欽、韶州英徳の賊の張廷光が郡県を略奪して誰も制せずにいたが、翌年(六年・1572年)元勲は進んで討ち、六百餘を斬り、亞六らは首を差し出し、残党もことごとく平らいだ。
  • 肇慶恩平の十三村の賊、陳金鶯らが、隣邑の苔村の三巣の賊の羅紹清・林翠蘭・譚權伯、藤峒九逕十寨の賊の黄飛鶯・邱勝富・黄髙暉・諸可行・黄朝富らと呼応して乱をなした。
  • 旧例では両粤では大征でなければ功を叙されず、鵰勦(小規模な討伐)では叙されなかったので、諸将は賊の巣を鵰勦するのを喜ばなかった。總督の殷正茂は元勲と計って鵰勦でも功を論じられるようにし、諸軍は競って奮い立った。
  • 正茂はまた密かに副將の梁守愚・游撃の王端らを恩平に屯させ、平常の守備のように見せかけ、不意を襲って林翠蘭らを斬り、羅紹清・譚權伯を生け捕って献じた。諸路の鵰勦の成果は首功二千四百餘、掠われた子女千三百餘人を取り返した。陳金鶯を生け捕り、黄髙暉らだけが逃げた。元勲は藤峒まで追い、さらに邱勝富・諸可行・黄朝富ら八十人を捕らえ、部将の鄧子龍らも黄髙暉・黄飛鶯を捕らえた。三巣・十寨・十三村の諸賊はことごとく平らぎ、残りはみな招撫に応じた。
  • 惠州と潮州は地が接し、山は険しく樹木が深い。賊首の藍一清・頼元爵と、その一味の馬祖昌・黄民太・曾廷鳯・黄鳴時・曽萬璋・李仲山・卓子望・葉景清・曽仕龍らが、それぞれ険に拠って砦を結び、連なる地は八百餘里、一味は数万人であった。
  • 正茂は大征を議した。折しも陳金鶯らがすでに滅ぼされていたので諸賊はかなり恐れ、曾廷鳯・曽萬璋はともに子を入学させ、馬祖昌・葉景清もいつわって降伏を乞うた。正茂はその詐りを見抜き、兵四万を徴し、叅將の李誠立・沈思學・王詔、游撃の王瑞らに分けて率いさせ、元勲が中央にあって節制し、監司の陳奎・唐九徳・顧養謙・吴一介に監軍させた。数道から一斉に進むと賊は敗れて険に拠って守り、官軍は深い竹林や谷をあまねく捜索した。元勲は唐九徳とともに逃げる賊を南嶺まで追い、一昼夜駆けて顧養謙のもとへ至り、李坑を撃破して卓子望らを生け捕った。
  • 翌年、烏禽嶂を破った。曽仕龍が高山を頼んでいたので、元勲はいつわって酒宴を開いて見せ、突然兵を進めて捕らえた。前後に大賊首六十一人、次の賊首六百餘人を得、大小の巣七百餘か所を破り、一万二千餘を捕らえ斬った。帝は勝報を宣べ郊廟に告げ、元勲は署都督同知に進み、百戸の世廕を与えられた。元勲はさらに残賊千三百餘を討ち斬り、降った者を鎮撫し、大寇はみな鎮まった。

張元勲――諸良寶・林鳳の平定と晩年

  • 潮州の賊、林道乾の一味の諸良寶は、招撫に応じたのちまた叛き、官軍を襲って殺し、六百人を掠って海に入った。ふたたび陽江を侵して敗走し、潮州のもとの巣に拠り、高い山頂に居て出て戦わなかった。官軍は泥の中に営した。副將の李誠立は挑戦して落馬し足を傷め、死者二百人が出た。賊は出て略奪したが敗れ、巣に戻って固く守った。元勲は草と土を積み上げて賊の塁と同じ高さにし、火攻めをかけて千百餘級を斬った。萬厯二年(1574年)三月のことである。勝報が奏されて世廕を一級進められた。残党の魏朝義ら四つの巣も降った。
  • まもなく胡宗仁とともに諸良寶の一味の林鳯を平らげ、惠州・潮州にはついに賊がいなくなった。
  • その冬、倭が銅鼓石・雙魚城を陥れたが、元勲は大破して峒を奪い返し、八百餘級を捕らえ斬った。秩は正式のものとなった。
  • 五年(1577年)、總督の凌雲翼に従って羅旁の賊を大征し、一万六千餘級を斬り、都督に進み、廕を錦衣に改められた。まもなく病により致仕し、家で没した。
  • 元勲は小校から身を起こして大小百十戦し、威名は嶺南に響き、廣西の李錫とともに良将と称された。

史論

  • 贊に言う。世宗の朝の老成の宿将では俞大猷が筆頭であるが、たびたび運に恵まれず躓いたのは、内外の諸臣がその功を横取りし覆い隠したことが多かったからである。
  • 戚繼光は用兵の威名が天下に響いたが、張居正・譚綸が国事を担っていた間は成功し、その後に張鼎思・張希臯らが言路にあると廃された。将を任用する道もこれで知れる。
  • 劉顯は蛮を平らげて病と称して辞したが、そのさい役所の妨害を理由に挙げた。これにも理由があろう。
  • 李錫・張元勲は首功がきわめて盛んだったのに格別の賞に浴さなかった。武功が振るわなかったのはこれによる。