明史卷二百十一 列傳第九十九 石邦憲

銅仁の苗の討伐

  • 石邦憲は字を希尹といい、貴州清平衛の人。嘉靖七年(1528年)に世職を継いで指揮使となり、功を重ねて署都指揮僉事に進み、銅仁參將となった。
  • 苗の龍許保・吳黑苗が叛き、総督の張岳が征討を議したが、賊が印江・石阡を陥れたので石邦憲は逮捕・訊問の処分を受けた。張岳は、銅仁が賊の巣穴であり石邦憲には謀と勇があるとして、留任を奏請した。
  • そこで石邦憲は川・湖の兵とともに貴州へ進み、苗の砦十五を破り、山林に逃げ込んだ者もほぼ捜し出して討った。功を上申するに石邦憲が第一であったが、叙されないうちに龍許保らが思州に突入して知府の李允簡を捕らえて去った。石邦憲は急ぎ迎え撃って奪い返したが、この件で停俸のうえ戴罪となった。
  • 賊は思州を破ったのち残党を糾合し、湖廣の蜡爾山の苗と合して石阡を攻めようとしたが果たせず、省溪を通ったところを千戸の安大朝らが迎え撃って大半を斬獲し、輜重をすべて奪ったので、賊は軍をなせなくなった。
  • 石邦憲は使者を遣わし、老䝡・老□(底本欠字)らを買収して龍許保を捕らえ軍門へ送らせたが、黒苗はなお逃げ回っていたので、さらに計略で烏朗の土官の田興邦らを買収して黒苗を斬らせ、賊はすべて平らげられた。
  • 署都督僉事に進み、総兵官として沈希儀に代わって貴州を鎮した。

諸苗の乱の鎮定

  • 臺黎砦の苗の闗保が乱を起こし、四川の容山、廣西の洪江の諸苗が呼応して遠近が騒然となり、招撫も討伐も定まらなかった。石邦憲は湖廣の兵と道を分けて討ち破り、十八砦に檄を伝えて首謀者を捕らえれば罪を贖うことを許したので、諸苗は招撫に従い、盟を設けて約を受けて還った。
  • 播州宣慰の楊烈が長官の王黼を殺し、王黼の一党の李保らが兵を整えて争うこと十年近くに及んだのを、総督の馮岳と石邦憲が討ち平らげた。
  • 播州の苗の盧阿項が乱を起こすと、石邦憲は兵七千で筏を組んで江を渡り、磨子崖まで直進した。賊は必ず夜襲すると読んであらかじめ備え、賊が来たところを撃ち破った。
  • 賊が播州の吳鯤に援けを求めたので諸将は恐れたが、石邦憲は「水西宣慰の安萬銓は播州の恐れる相手だ。水西の兵を調えて烏江を攻めさせ、楊烈が吳鯤を放って逆賊を助けさせた罪を鳴らせば、楊烈に人を救う暇などない」と言った。
  • 水西の兵が到着すると石邦憲は賊の巣に迫り、風に乗じて火を放ち、関を斬って登ったので、賊は大いに潰走した。賊首父子を捕らえ、斬獲四百七十余人。署都督同知に進んだ。

地隆阡以下の諸砦の平定

  • 地隆阡の叛いた苗の四砦を破り、さらに答千の諸砦を破ってその渠魁を捕らえた。
  • 地隆阡の残った賊の龍老三・龍得奎が龍停の苗の老夭、扳凳の苗の石章保らと結んで兵を放って掠奪し、石耶洞の土官の妻の冉氏を捕らえて帰り、梅平砦を攻めた。官軍は龍老三を捕らえようとしたが、龍得奎は逃げ延び、さらに老夭らとともに平南の営囤を攻め破った。
  • 石邦憲は冉氏が老夭のもとにあることを探知し、表向きは身代金の交渉をしておいて□(底本欠字)老夭を撃ち殺した。官軍はそのまま龍停砦に入り、あわせて扳凳砦の苗の龍老丙を捕らえ、石章保を捕らえて献じさせた。ここに諸苗はことごとく降った。
  • 白洗・養鵝の諸苗が叛くと、討ってその首魁を捕らえ、百余砦を降した。
  • 湖廣の溆浦の猺の沈亞當らが乱を起こすと、総督の石勇の檄により石邦憲が討ち、沈亞當を生け捕り、斬獲二百余であった。
  • 溆浦が平らいだばかりのところへ銅仁・都匀の苗が互いにあおって叛いたので、石邦憲は急ぎ馳せ戻り、守備の安大朝を率いて討伐に向かった。まず彪山砦を破り、勝ちに乗じて諸砦をおおむね平定し、賊首の龍老羅・王三らを捕らえ、残党もことごとく平らげた。
  • また総督の黄光昇とともに湖北の墪臺・烽堠百十か所を修め、冷水溪の諸洞の苗二十八砦を招降した。

韓甸・張問の乱と晩年

  • 播州容山の副長官の土舍である韓甸が、正長官の土舍の張問と攻め合い、韓甸がたびたび勝って、生苗を糾合して湖・貴の境を略奪すること二十年近くに及び、張問もまた徒党を糾合して自ら助けとした。
  • 石邦憲が討って百余人を斬り、張問は□(底本欠字)出たところを捕らえられた。官軍が勝ちに乗じて韓甸の巣に入ったところ、日暮れに大雨となって道に迷い、守備の葉勛、百戸の魏國相らが伏兵にかかって死んだ。
  • 石邦憲は包囲を破って出て、鎮遠に軍を還し、あらためて征討した。賊が江に沿って守っていたので、石邦憲は表向き渡河を争うふりをしながら、別に上流三十里で竹を編んで渡り、水陸から並び進んで大破し、韓甸を斬って容山は平定された。右都督に進んだ。
  • まもなく巡撫の吳維嶽とともに平州の叛いた酋の楊珂を招降し、龍里衛の賊の阿利らを討ち平らげた。
  • 当時、水西宣慰の安國亨が衆を恃んで跋扈し、上官に謁して言葉や顔色が気に入らないと衆をあおって騒がせて退出するのが常であった。石邦憲は召して叱責した、「お前は叛くつもりか。私はお前を釜の中の魚と見ている。お前の兵が雲・貴・川・湖より多いというのか。お前の四十八の酋長に、私が四十八の印を鋳て与えれば、朝に令を下して夕にはお前を滅ぼせるのだ」と。安國亨は叩頭して詫び、以後は身を慎んだ。
  • 隆慶元年(1567年)、鎮遠の苗を討ち平らげ、ついで白泥の土官の楊贇および苗の酋の龍力水らを破って誅し、管内は静まった。
  • 石邦憲は黔の地に生まれ育って苗の実情に通じ、兵をよく用い、大小数十百戦して打ち破らないことがなかった。前後して官秩を進めること四度、銀幣を賜ること十三度。得た俸禄や賜与はすべて士に振る舞い、家に余財がなかった。
  • 総兵官たること十七年、威は蛮中に鳴り響き、四川の何卿、廣西の沈希儀とともに一時の名将と称された。翌年、官にあって没し、左都督を追贈された。

史論

  • 賛に曰く。ああ、明は中葉に至っても辺境の人材を欠いてはいなかった。馬永・梁震・周尚文・沈希儀のような者は、奇策を出して勝ちを制し、士卒の死力を得た。古の名将といえどもこれ以上ではあるまい。
  • しかし功が高いのに賞は薄く、栄達も失脚も定まらなかった。理由は他でもない。彼らは志を高く持って気を奮い立たせ、朝廷で政を握る有力者に取り入って歓心を買うことをしなかった。折り合いが悪くなるのは当然であった。
  • 馬芳は三代にわたって将となり、父子兄弟が相次いで国に殉じた。偉大なことである。