明史卷二百十三 列傳第一百一 徐階

字は子升、松江華亭の人である徐階(?–1574年)。嘉靖二年に探花で及第し、孔子の王号を廃する張孚敬の議に独り抗して延平府推官に左遷されたが、のち青詞の才で世宗の入直を許され、少保・文淵閣大学士として入閣した。嚴嵩の中傷に堪えながら仇鸞の罪状を暴き、楊継盛の獄が皇子に及ぶのを防ぎ、萬夀宮の造営で帝の信を得て、ついに嚴嵩父子を失脚させて首輔となった。直廬に「威福を主上に還す・政務を諸司に還す・用捨と刑賞を公論に還す」の三語を掲げて言路を開き、世宗の遺詔を草して大礼・大獄で罪を得た諸臣をことごとく復官させ、名相と称された。隆慶初、髙拱と争って致仕し、拱の報復で二子を辺境に流された。太師を贈られ、諡は文貞。

年表(5件)

篇首の立伝者一覧

  • 徐 階(弟の陟、子の璠ら)
  • 髙 拱(郭 朴)
  • 張居正(曽孫の同敞)

出自と生い立ち

  • 徐階、字は子升、松江華亭の人。生まれて満一歳のころ涸れ井戸に落ち、三日目に蘇生した。五歳のとき父に従って括蒼を通り、高い嶺から転落したが衣が木に掛かって死なず、人々は不思議がった。
  • 嘉靖二年(1523年)、進士第三人に及第し翰林院編修を授かる。帰郷して娶ることを許された。父の喪に服し、服除して旧官に補せられた。
  • 人となりは背が低く色白で立ち居振る舞いが美しく、聡敏で権略があり、内に重く抱えて外へ漏らさなかった。読書して古文辞をよくし、王守仁の門人と交わって士大夫の間に名声があった。

孔子の王号をめぐる抗論と延平府への左遷

  • 帝が張孚敬の議によって孔子の王号を廃し、像を木主に改め、籩豆・礼楽をいずれも減らそうとした。儒臣に議させたところ、階だけが不可と主張した。孚敬が階を召して気色ばんで詰問したが、階は抗弁して屈しない。孚敬が怒って「お前は私に叛くのか」と言うと、階は「叛は附くところから生じます。階はいまだ公に附いておりません。どうして叛と言えましょう」と正色し、長揖して退出した。
  • 延平府推官に斥けられ、続けて郡の政務を摂り、獄囚三百人を出し、淫祠を毀ち、郷社学を創設し、凶悪な盗賊百二十人を捕えた。
  • 黄州府同知に遷り、浙江按察僉事に擢せられ、江西按察副使に進み、いずれも学政を監督した。皇太子の出閣にあたり司経局洗馬兼翰林院侍講を拝す。母の喪で帰り、服除して国子祭酒に擢せられ、礼部右侍郎に遷り、まもなく吏部に移った。
  • 吏部の慣例では門を閉ざし、庶官に会っても数語しか交わさなかったが、階は身を低くして必ず深く坐り、辺境と内地の要害、吏治と民の苦しみを尋ねた。相手はみな階の意にかなったことを喜び、進んで用いられたいと願った。尚書の熊浹・唐龍・周用はいずれも階を重んじ、階はしばしば部の事を署理した。引き立てた宋景・張岳・王道・欧陽徳・范鏓はみな長者であった。周用が卒し聞淵が代わると、先輩をもって任じて独断したので、階は面白からず、外に出て避けようとした。翰林院学士を兼ねて庶吉士を教習するよう命ぜられ、まもなく掌院事、礼部尚書に進んだ。

青詞と入直、建儲の請い

  • 帝は階の勤勉を察し、また階の撰した青詞だけが旨にかなったので、無逸殿に入直させ、大学士張治・李本とともに飛魚服および上方の珍饌・上尊を賜ること虚日がなかった。吏部尚書に廷推されたが聴かれなかった。左右から階を去らせたくなかったのである。
  • 階は皇太子を立てるよう請うたが返答がなく、続けて請うたがいずれも返答がない。のちに冠礼・婚礼にあたり、裕王を先にし景王を後にするよう請うと帝は不快であった。まもなく推恩により太子太保を加えられた。

諳達の京師侵入と求貢の議

  • 諳達が京師を犯すと、階は周尚文および戴綸・欧陽安らを釈放して自ら功を立てさせるよう請い、許された。さらに帝が大内に還って群臣を召し兵事を議するよう請い、これも容れられた。
  • 中官が寇中から帰り、諳達の求貢の書を進めた。帝はこれを嚴嵩と階に示し、便殿で召対した。嵩は「飢えた賊にすぎず、憂えるに足りません」と言い、階は「城づたいに軍を進め、人を殺すこと草を刈るごとくであります。どうして飢えた賊と言えましょう」と反論し、帝は階に理があるとした。求貢の書はどこかと問うと、嵩は袖から取り出して「礼部の管轄です」と言った。帝が重ねて階に問うと、階は答えた。寇は深く入っている、許さなければその怒りを激発させ、許せば厚い要求を突きつけてくる。通訳を遣わして欺き引き延ばし、その間にこちらは備えを固める。援兵が集まれば寇は自ら退くでしょう、と。帝は再三これを善しとした。
  • 嵩と階は帝に出御して朝に臨むよう請うた。寇はまもなく満足して去り、階の疏を下して貢は許さなかった。
  • 嵩は寵を恃んで権を弄び、同列を猜疑して害した。すでに夏言を仇として死に至らせていたが、その言がかつて階を薦めていたので、嵩は階を忌んだ。

孝烈皇后の祔廟をめぐる議と嚴嵩の中傷

  • はじめ孝烈皇后が崩じ、帝は廟に祔したいと思ったが、先の孝潔皇后に圧されること、また睿宗の入廟が公議によらず後世に祧を議されかねないことを気にし、自らの代のうちに予め仁宗を祧し、孝烈を先に祔して自らで一世をなそうと考え、礼部に議させた。階は「女后で先に廟に入った例はない」と抗言し、奉先殿に祀るよう請うた。礼科都給事中楊思忠も同意した。疏が上ると帝は大いに怒り、階は恐懼して謝罪し、前の議を守り通せなかった。
  • 帝はまた階を邯鄲に遣わして呂仙祠の落成に臨ませようとした。階は行きたくなく、祔廟の議を口実に猶予を得た。期日には寇が城に迫り帝も気がゆるんで、尚書顧可学を行かせたが、内心では階を恨み、楊思忠の元旦の賀表の誤りを摘発して廷杖百に処し庶民に落とし、階を怖れさせた。
  • 嵩はこれを見て階は離間できると考え、あらゆる手で中傷した。ある日独り召対したとき、嵩はおもむろに「階に足りないのは才ではありません。ただ二心が多いだけです」と言った。かつて太子を立てるよう請うたことを指したのである。階は身が危うく、争える情勢でないと見て、嵩に謹んで仕え、いよいよ念入りに斎詞を作って帝の意に迎合した。左右にも階を庇う者が多く、帝の怒りは次第に解けた。

入閣と仇鸞の告発

  • まもなく少保を加えられ、兼文淵閣大学士・参預機務に進む。密疏で咸寧侯仇鸞の罪状を暴いた。嵩は階が鸞とかつて同じく入直していたので、鸞に事寄せて階を倒そうとしたが、鸞の罪の告発が階から出たと聞いて愕然として取りやめ、階を忌むことがますます甚だしくなった。
  • 帝は鸞を誅してからいよいよ階を重んじ、しばしば辺事を謀った。鸞が増やした衛卒を減らす議が出たとき、階は減らすべきでないと言い、京営が弱いのは人が乏しいからではなく冗員のためだから精選淘汰し、浮いた廩米を賞費に充てるべきだと述べ、また提督侍郎孫禬の罷免を請うた。はじめ嵩に阻まれたが、久しくしてみな採用された。
  • 一品が満三年で勲を柱国に進め、さらに兼太子太傅・武英殿大学士に進む。満六年で大学士の俸を兼食し、重ねて子一人を中書舎人に録した。少傅を加え、満九年で兼吏部尚書に改め、礼部で宴を賜り、璽書の褒諭も格別であった。
  • 帝は階を重んじながらも、なお隔てを見せた。かつて五色の芝を嵩に授けて薬を錬らせ、階は政の根本に関わるから与らせぬと言った。階が恐懼して請い、ようやくこれを得た。帝も次第に階に委任し、階の地位は嵩に次ぐものとなった。

楊繼盛の獄で皇子への波及を防ぐ

  • 楊継盛が嵩の罪を論じ、二王を証拠に挙げたため錦衣獄に下された。嵩は陸炳に主使者を追及させようとした。階は炳を戒めて「もし慎まずに皇子にまで及べば、宗社をどうするのか」と言った。さらに危うい言葉で嵩を動かし、「主上には二子しかおられぬ。必ず忍びず、公に謝罪を負わせることはあるまい。罪せられるのは側近だけだ。公はなぜ宮邸との怨みを表沙汰にするのか」と説いた。嵩は恐れ慄いて取りやめた。

倭寇と辺卒の飢え

  • 倭が東南を荒らし、帝はしばしば階に問うた。階は発兵を強く主張した。また辺境の兵卒が飢えているのを思い、畿内の麦数十万石を集め、居庸から宣府へ、紫荊から大同へ輸送するよう請い、帝は悦んで密かに諭して実行させた。

嚴嵩との対立の表面化

  • 楊継盛が嵩を弾劾したときも嵩はもとより階を疑っていた。趙景王宗茂が嵩を弾劾したときには、階はまたその罰を軽くするよう議した。給事中呉時来、主事董伝策・張翀が嵩を弾劾して敗れ、みな下獄した。伝策は階の同郷、時来と翀は階の門生である。嵩は疏を上げて弁明し、階が背後で操っていると明言したが、帝は聴かず、密かに諮問するときは嵩を措いて階に問うようになった。
  • まもなく太子太師を加えられた。

萬夀宮の造営

  • 帝の住む永寿宮が焼け、玉熙殿に移ったが甚だ狭く、造営について嵩に問うと大内へ還るよう請うたので帝は不快であった。階に問うと、三殿の余材を用い尚書雷礼に造らせれば月数を数えて竣工しますと答えた。帝は悦び階の議のとおりにさせ、階の子の尚宝丞璠に工部主事を兼ねさせて工事を監督させ、十旬で完成した。帝は即日そこへ移り、萬夀宮と名づけた。階の忠により少師に進めて尚書の俸を支給し、子一人に中書舎人を与え、子の璠も太常少卿に飛び越えて擢せられた。嵩の勢いは日に日に屈した。

嚴嵩の失脚と首輔就任

  • 嵩の子世蕃の貪横淫縦の実状も次第に聞こえてきた。階は御史鄒応龍に弾劾させた。帝は嵩を致仕させ、応龍を通政司参議に擢し、階が嵩に代わって首輔となった。
  • のち帝は嵩の供奉の労を思って憐れみ、また嵩が去ってから鬱々として楽しまず、退いて修真し位を嗣に伝えたいという諭を降し、あわせて階らを「なぜ官を邪な者(応龍を指す)に与えたのか」と責めた。階は、退位して嗣に伝えることは臣らとして命を奉じられません、応龍の転任は二部が旨を奉じて行ったものです、と答え、帝はやめた。
  • 帝は嵩が長く入直するあいだに世蕃が外で奸をなしたことに鑑み、階には長く入直させぬよう命じた。階は帝の意を察し、「もし奸をなすのなら外にいても内にいるのと同じです」と言い、固く入直を請うた。帝は嵩の直廬を階に賜った。階はその中に三つの語を掲げた——威福を主上に還す、政務を諸司に還す、用捨と刑賞を公論に還す。これによって朝士は堂々と意見を通せるようになった。
  • 袁煒がしばしば直を離れたので、階は彼を召して共に旨を擬させるよう請い、「事は衆と同じくすれば公となり、公なれば百の美がここに基づく。専断すれば私となり、私なれば百の弊が生ずる」と言い、帝は頷いた。
  • 階は張孚敬と嵩が帝を猜疑と苛刻に導いたのを覆し、寛大をもって帝の意を開こうと努めた。帝が給事中・御史の攻撃を行き過ぎと憎み処分しようとしたときも、階は曲折を尽くして調整し軽い処分に留めた。
  • 帝が人を知ることの難しさを問うたとき、階は答えた。大奸は忠に似、大詐は信に似る。ただ広く聴き容れれば、窮凶極悪の者も他人が自分のために捕えてくれ、深く隠された悪も他人が自分のために暴いてくれる。だから聖帝明王は言があれば必ず調べた。事実でなくとも小さければ捨て置き、大きければ軽く責めて容れ、後から言う者を励ましたのだ、と。帝は善しとし、言路はいよいよのびのびとなった。

牆子嶺からの寇と楊博・楊選の処分

  • 寇が牆子嶺から入り、まっすぐ通州へ向かった。帝はちょうど祭祀中で、兵部尚書楊博は奏上できず階に相談した。階は宣府総兵官馬芳と宣大総督江東に檄して来援させた。芳の兵が先に到着すると急ぎ賞するよう請い、また江東の権限を重くして諸道の兵を統べさせるよう請うた。寇が通州から香河を掠めると、急ぎ順義を備え、奇兵で古北口に待ち伏せするよう請うた。寇は順義に入れず古北口へ走り、その後軍は参将郭琥の伏兵に遭って敗れ、掠奪した人畜・輜重をかなり取り戻した。
  • はじめ帝は、博が早く報せなかったこと、総督楊選が寇の侵入を許したことを怒り、罪しようとしてまだ発していなかった。階は、博は祭祀中の禁令で奏上できなかったが二鎮の兵はいずれも博が先に檄したものであり、選は寇を追尾せずただ境外へ送り出しただけです、と言った。帝はついに選を誅し、博は罪さなかった。
  • 階は建極殿大学士に進む。袁煒が病で帰り道中で卒したので、階が独り国政に当たった。しばしば閣臣の増員と致仕を請い、厳訥・李春芳が入閣を命ぜられた。

帝の恩遇と「名相」の評

  • 階への待遇はいよいよ厚く、一品十五年の考課では恩礼が格別で、重ねて玉帯・繡蟒・珍薬を賜り、帝は自ら手書して階の病を問うこと、家人のように懇ろであった。階はいよいよ恭謹で、委託があれば一晩中仮眠もせず、応制の文はいつも即座に仕上げた。帝は日ごとに階を愛した。
  • 階は世論のうち便利なものを採って上申し実行した。嘉靖の中葉には南北で兵を用い、辺鎮の大臣は少しでも帝の意に沿わないと逮捕・下獄され、誅殺や流竄に遭い、閣臣は帝の顔色を窺って威福を振るった。階が国政に当たってからは緹騎の出動が減り、詔獄は次第に空になり、事に当たる者も功名を全うできるようになった。そこで論者はこぞって階を名相と推した。
  • 厳訥が休暇を請うて帰り、郭朴・髙拱が入閣して春芳とともに輔政したが、事はなお階が決した。
  • 階はしばしば太子を立てるよう請うたが返答はなかった。まもなく景王が藩地で病死すると、階は景王府が占有した陂田数万頃を没収して民に返すよう奏し、楚の人々は大いに悦んだ。
  • 帝が雩壇と興都の宮殿を建てようとしたのを、階は力めて止めた。鄢懋卿が塩課を四十万金も増額したときは、御史に働きかけて旧額に戻させた。方士の胡大順らが帝に金丹を勧めると、階はその偽りの実状を陳べ、大順らはまもなく処刑された。
  • 帝が丹薬を服して病み気が立っていたとき、戸部主事海瑞が帝の過失を極言した。帝は激怒して即座に殺そうとしたが、階が力めて救い、繋がれるだけで済んだ。
  • 帝の病が篤くなり、突然興都へ行幸しようとしたが、階が力争して止めた。

世宗の遺詔起草

  • まもなく帝が崩じた。階が遺詔を草し、斎醮・土木・珠宝・織作をことごとく廃し、大礼・大獄・言事によって罪を得た諸臣をすべて復官させた。詔が下ると朝野は号泣感激し、楊廷和が擬した登極の詔書と並べて、世宗の始めと終わりを飾る盛事だと言われた。
  • 同列の髙拱と郭朴は、この謀議に加えられなかったので不快であった。朴は「徐公は先帝を謗った。斬るべきだ」と言った。拱ははじめ穆宗の裕邸に侍し、階が引いて輔政させたのだが、階が独り国政を握ったので心中平らかでなかった。

隆慶初の政争と致仕

  • 世宗の不予のとき給事中胡応嘉が拱を弾劾したことがあり、拱は階が嗾けたと疑った。隆慶元年(1567年)、応嘉は考察で黜けられた者を救ったため削籍となって去った。言者は拱が旧怨を晴らし階を脅して応嘉を斥けたのだと言い、階は重ねて応嘉の処罰を軽くするよう請うた。言者がまた拱を弾劾すると、拱は階に杖刑の旨を擬させたかったが、階が穏やかに諭したので拱はますます不快となり、御史斉康に階を弾劾させ、階の二子が多く請託し家人が郷里で横暴だと言わせた。階は疏を上げて弁明し辞職を乞い、九卿以下が交々拱を弾劾して階を称えたので、拱は病と称して帰り、康はついに斥けられ、朴も言者に攻められて身を引いた。
  • 給事中・御史の多くが廃籍から起用され、階を頼みに強く発言して過激に流れることが多かった。帝は堪えられず、階らに処置するよう諭した。同列が譴責を擬そうとすると、階は「主上が我らを譴めようとされるなら力争すべきところだ。それを譴責へ導くのか」と言い、諭を伝えて反省させるよう請い、帝も罪さなかった。
  • この年、翰林に中秋の宴の致語を撰するよう詔したが、階は先帝の几筵がまだ撤されておらず宴楽すべきでないと述べ、帝は宴を取りやめた。
  • 帝が中官に団営を分けて監督させようとしたのを、階は力説して止めた。
  • 南京の振武営の兵がしばしば騒擾した。階は淘汰したかったが、孝陵に拠られては攻められないと慮り、先に操江都御史唐継禄に江防の兵を率いて陵の傍に駐屯させ、そのうえで徐ろに兵部に下して分散させ、事は収まった。
  • 小者の宦官らが午門で御史を殴打した。都御史王廷が糾弾しようとしたが、階は「主謀の名が分からなければ弾劾しても益がなく、逆に先に誣告されるおそれがある」と言い、人を使って言葉巧みに大璫を誘い、先に主謀の名を記録させた。廷の疏が上って、区別して逮捕・処罰に差をつけた。階の正道を守りつつ変に応ずるやり方は、こうしたものが多い。
  • 階が争い諫めたのは宮禁の事が多く、十のうち八九は通ったので、中官の多くが階を睨んだ。帝が南海子に行幸したとき諫めたが聴かれず、辞職を乞おうとしたところ、給事中張斉が私怨から階を弾劾した。階はそこで帰郷を請い、帝の気持ちも次第に離れていたので許した。駅伝の使用を賜り、春芳の請いによって人夫と食糧を給し、璽書で褒め、行人が先導することは故事のとおり。陛辞のとき白金・宝鈔・彩幣・襲衣を賜った。朝廷こぞって留任を疏請したが、聞き置くとされただけであった。のちに王廷が張斉の収賄を探り出して弾劾し、辺境に流した。
  • 階が去った後、春芳が首輔となり、まもなく彼も帰った。拱が再び出て、余力を残さず階を追い詰めた。郡邑の役人は拱の意を迎えて争って階を苦しめ、その田をすべて没収し、二子を辺境に流した。拱が張居正に倒されて罷免され、ようやく事は収まった。
  • 萬厯元年(1573年)、階は八十歳。詔して行人を遣わし見舞わせ、璽書と金幣を賜った。翌年(1574年)卒した。太師を贈り、諡は文貞。
  • 階は朝廷にあって見通しをもって善良な人士を守り、嘉靖・隆慶の政治に匡救するところが多かった。ときに曲従することもあったが、大節を失わなかった。

徐階の一族

  • 弟の陟。嘉靖二十六年(1547年)進士。累官して南京刑部侍郎。
  • 子の璠。廕によって太常卿。子の琨・瑛は尚宝卿。
  • 孫の元春。進士。やはり太常卿。
  • 元春の孫の本髙。錦衣千戸。天啓年間に魏忠賢の生祠建立を拒んで職を奪われ、崇禎初め、推薦により起用され累官して左都督。
  • 諸生の念祖。国変に城が破られ、妻の張氏、妾の陸氏・李氏とともにみな自縊した。