嚴世蕃をはねつけ、鄢懋卿らを弾劾する
- 林潤は字を若雨といい、莆田の人。嘉靖三十五年(1556年)の進士。臨川知縣に任じられ、公務で永豐に行った際に敵が急襲してきたのを、計略を立てて退けた。召されて南京御史となった。
- 嚴世蕃が酒宴を設けて林潤を招いたとき、林潤の弁舌が颯爽としていたので世蕃は内心恐れ、宴のあと客を介して「嚴侍郎は、君が当世のことを刺すのはやめてほしいと言っている」と伝えさせた。
- 林潤は着任するとまず祭酒の沈坤が勝手に人を殺した件を論じて法に付し、ついで副都御史の鄢懋卿の五つの罪を弾劾したが、嚴嵩がかばって不問となった。
- 伊王の典楧が不道であり、たびたび論じられても改めないので、林潤が重ねて糾弾した。典楧はしきりに上奏して林潤が私意を挟むと誹り、部と科がそろって、王が朝命に抗して言官を脅していると論じたが、世蕃がその賄賂を受け、詔で叱責するにとどまった。
- 林潤はこれを機に、宗室が増えて年々の禄が続かないとして、速やかに変通を議するよう求めた。帝は担当官庁に下して合議させた。
嚴世蕃の誅殺
- 帝が鄒應龍の言を容れて世蕃を雷州に、その一党の羅龍文を潯州に流したが、世蕃は家に留まって赴かず、羅龍文は一度戍所に行っただけで徽州へ逃げ帰り、しばしば江西へ往来して世蕃と謀っていた。
- 嘉靖四十三年(1564年)冬、林潤が江防を視察してその実状をつかみ、急ぎ上疏した。上江を巡視して調べたところ、江洋の群盗はことごとく逃亡兵の羅龍文と嚴世蕃の家に潜り込んでいる。羅龍文は深山に居を構え、軒に乗り蟒衣を着て、要害を恃んで臣たらざる心がある。世蕃は日夜羅龍文と時政を誹謗して人心を惑わし、近ごろは邸宅の造営に名を借りて勇士を集めること四千余人、道行く人は怯えて変事が起きかねないと言い合っている。早く刑を正して禍の根を絶たれたい、と。
- 帝は激怒し、直ちに林潤を召して逮捕のうえ京師へ送らせることとした。世蕃の子の紹庭は錦衣の官にあり、命が下るや急いで世蕃に知らせて戍所へ行かせようとしたが、二日後には林潤が駆けつけており、世蕃は間に合わず、械をはめられて連行された。羅龍文も梧州から捕らえられた。
- こうして二人の不法をことごとく取り調べ、二人はついに誅に伏した。
応天巡撫としての治績
- 林潤はまもなく南京通政司參議に抜擢され、太常寺少卿を歴任した。
- 隆慶元年(1567年)、右僉都御史として應天の諸府を巡撫した。属吏はその威名に震え上がったが、林潤は着任すると寛平に臨み恵政が多かった。
- 三年在職して官にあるまま没した。年はまだ四十であった。
- 郷里の興化郡が倭に陥れられた際、特に上疏して三年の免税を請い、国庫金を出して救済した。郷人は徳とし、喪が帰るときには道を四十里にわたってふさぎ、位牌を設けて祭り哭すること三日に及んだ。
史論
- 賛に曰く。嚴嵩は宰相として二十余年、悪を重ねて満ち、これを論じた者は必ず表立った禍に遭った。この篇の諸臣が抗議の直諫を行い、楊繼盛や沈鍊のような惨刑にこそ至らなかったものの、斥けられ死に瀕してなおそれを甘んじて受けたのは、大いに評価すべきである。
- ただし胡汝霖は左遷後にかえって嚴嵩に付いて出世し、吳時來はたび重なる挫折のすえ晩年に執政におもねった。識者はその晩節の不堅を譏った。それゆえ一方は嚴嵩の一党として官を奪われ、一方は朝議によって諡を削られた。直節はまことに偽り飾れるものではない。
- 鄒應龍と林潤は、嚴嵩への寵がすでに移った時に当たったので、その言が受け入れられやすかった。上疏の切実さが必ずしも他の諸臣に勝っていたわけではないのに、大悪人がそれによって首を差し出した。悪が積もって身を滅ぼすものであり、鄒應龍・林潤の弾劾はたまたまその時機に当たったということであろうか。