明史卷二百十一 列傳第九十九 馬永

篇首の立伝者一覧

  • 馬永
  • 梁震(祝雄)
  • 王效
  • 周尚文(趙國忠)
  • 馬芳(子の林、孫の炯・爌・飈)
  • 何卿
  • 沈希儀
  • 石邦憲

出自と正徳年間の武功

  • 馬永は字を天錫といい、遷安の人。生まれつき体格大きく勇猛果断で謀があり、兵法を学び『左氏春秋』を好んだ。世職を継いで金吾左衛指揮使となった。
  • 正徳年間、陸完に従って賊を撃ち功があり、都指揮同知に進んだ。江彬が西内で兵を練ったとき、馬永は本来その配下に入るはずだったが、病と称して避けた。
  • 遵化を守備していたとき、敵が馬蘭峪に侵入し、参将の陳乾が弾劾されたので、馬永が代わりに抜擢された。柏崖・白羊峪の戦いでいずれも功があった。
  • 正徳十三年(1518年)、都督僉事に進み、総兵官として薊州を鎮守した。諸営の老弱をすべて除いて農耕や商いに就かせ、その雇賃を取って壮健な兵に給した。これによって馬永の率いる兵は諸鎮の中でひときわ強かった。
  • 武宗が喜峰口に至って塞外へ出ようとしたとき、馬永は馬前にひれ伏して諫めた。帝はしばらくじっと見つめ、笑って取りやめた。
  • 中路の擦崖は敵の進路に当たるのに城堡がなく、耕作や牧畜をする者がいつも掠奪されていた。馬永は人に一か月分の糧を持たせ、崖の外側に陣を張らせて、その内側に版築を行い、期日どおりに城と役所を築き上げ、軍を移して守らせた。功により署都督同知に進んだ。

嘉靖初年の辺功

  • 嘉靖元年(1522年)、金山の鉱山で盗賊が乱を起こしたので、指揮の康雄を遣わして討ち平らげ、その鉱を塞いだ。
  • 朶顔のバルス(巴爾斯)が諸部と結んで賞を要求し、得られないと辺を侵した。馬永は洪山口で迎え撃ち、伏兵でその退路を断って、斬獲は損害を上回った。右都督に進んだ。
  • のちその驍将を討ち取ると、バルスはもう辺を侵そうとしなくなった。
  • 大同で兵変が起こって巡撫の張文錦が殺され、桂勇を総兵官として鎮めに行かせたが、議論は宥めて招撫する方向であった。馬永は述べた。逆賊が綱紀を犯し、朝廷が脅されて従った者を赦したのは至れり尽くせりの恩であるのに、なお命に抗している。いま討たなければ、春から北の敵が南下し、叛卒と通じて禍は大きくなる。速やかに隣鎮の兵を調え、期日を定めて城を攻め、利害を説き諭し、破格の賞をかけて賊に互いを斬らせて功とさせれば、首謀者を滅ぼすのは難しくない、と。
  • そこで馬永に諸軍を督させ、侍郎の胡瓚とともに向かわせた。乱が平らぐと鎮に戻った。

陸完の恩恤を請うて罷免される

  • 馬永は上書して陸完のために恩恤の典を請い、あわせて議礼の件で罪を得た諸臣の赦免を乞うた。帝は激怒して馬永の官を奪い、南京後府で禄だけを受ける身とした。
  • 巡撫御史の邱養浩が言上した。馬永は仁をもって軍を恤み、廉をもって己を律し、辺防を固めて強敵を退け、軍民は安んじて暮らし彼を長城と頼りにしている。馬永が去ると聞いて道をふさいで留任を乞い、子女を連れて逃げ去ろうとする者までいる。そもそも陸完は炎瘴の地で没して久しく、頼れる権勢があるわけではない。馬永はただ国士としての知遇に感じ、ささやかな報恩をしようとしただけである。知己に背かなければ国家に背くというのか。どうか寛大に扱い、鎮に戻していただきたい、と。
  • 順天巡撫の劉澤および給事中・御史も相次いで救おうとしたが、いずれも譴責を受け、馬永はついに廃されて用いられなかった。
  • 馬永は門を閉ざして読書し、貧しい士のように清く簡素に暮らした。しばらくして推薦により南京前府の僉書に用いられた。大同の軍が再び乱れると廷臣がこぞって推挙し、召されて赴いたが、すでに招撫されていたので南京に戻った。

遼東鎮守と兵変の鎮圧

  • 嘉靖十四年(1535年)、遼東で兵変があり、総兵官の劉淮が罷免され、馬永が代わった。
  • 太清堡の守将の徐顥が大寧衛の九人を誘い出して殺したため、部長のバルダガ(巴爾達噶)が怒って辺を侵したが、馬永が撃って斬った。その一族のボスン(博遜)が朶顔の兵を借りて報復に来たのも、馬永に退けられた。
  • のち再び侵入され、中官の王永が敗れたため、馬永は罪を負って戴罪となった。
  • 遼東は兵変以来、首謀者は誅されたものの漏れた者が多く、悍卒ははばかるところなく徒党を組んで叫び回り、不穏な心を抱いていた。広寧の兵卒の佟伏・張鑑らが旱魃と飢饉に乗じて衆をあおって乱を起こしたが、諸営の軍は馬永を恐れて応じる者がなかった。
  • 佟伏らが櫓に登って太鼓を打ち鳴らして騒ぐと、馬永は自分の家の者を率いて下から攻めた。千戸の張斌が殺されたが、馬永はいよいよ力戦してこれを全滅させた。事が上聞され、左都督に進んだ。
  • 馬永は百人余りの士を養っており、みな西北の壮健な者で勇猛果敢であった。遼東の変が収まったばかりのころ、帝が李時に将の人選を問うと、李時は馬永を推し、「その家の者たちが使えます」と言った。帝が「将は文武を兼ねるべきで、勇だけを頼みにしてよいのか」と言うと、李時は「遼の地は治まったばかりで、威力ある者に鎮めさせる必要があります」と答えた。ここに至ってその力が現れたのである。

名将としての評

  • 都御史の王廷相が、馬永は兵をよく用い、しかも廉潔であるから引き続き薊鎮に用いるべきであり、薊鎮は京師の藩屏であると述べたが、異動しないうちに没した。
  • 遼の人々は市を閉じて喪に服し、葬列が薊州を通ると州の人も涙を注いだ。両鎮はともに祠を立てた。
  • 馬永は将として間諜を手厚く扱い、敵情の真偽をつかんでいたので、戦えば勝った。人を見る目があり、抜擢した兵卒や下級校尉から後に大将となった者が多い。
  • 尚書の鄭曉は、馬永と梁震には古の名将の風があると称した。