嚴嵩の八つの罪
- 王宗茂は字を時育といい、京山の人。父の橋は廣東布政使、叔父の格は太僕卿。嘉靖二十六年(1547年)の進士で、行人に任じられ、三十一年(1552年)に南京御史に抜擢された。
- 当時、嚴嵩を弾劾した者はみな禍に遭い、沈鍊は保安への屯田送りにまでされていて、内外はその威勢に怯えていっそう口をつぐんでいた。王宗茂は憤懣を積もらせ、任官三か月にして上疏した。
- 嚴嵩はもともと邪佞の徒で、恥を知らず、長く国柄を握って威福をほしいままにし、四海の内外に怨まぬ者がない、として八つの罪を挙げた。
- 罪の一。吏部・兵部の選考のたびに二十人ほどを名指しし、一人あたり数百金を取って好きな任地を選ばせ、文武の将吏をすべて自分の門下から出させたこと。
- 罪の二。私人の萬寀を考功郎に据え、外官の昇進に際して行状も能力も調べず、資歴も勘定せず、ただ賄賂の有無だけを問い、方正の士が国家に用いられないようにしたこと。
- 罪の三。先年弾劾された際、ひそかに家財を南へ送り、車に載せた珍宝は数えきれず、金銀の人形は高さ二、三尺のものがあり、便器まで金銀で作らせていた。陛下の宮中にもそのような器があるでしょうか、と述べた。
- 罪の四。江西の数郡にわたって良田を買い占め、さらに邸宅の裏に石を積んだ大穴を掘って金銀珍玩を詰め、子孫百代の計を立てながら、国計と民の苦しみは一顧だにしないこと。
- 罪の五。五百人余りの家奴を抱え、京の邸との間を往来させて、行く先々で駅伝を騒がせ住民を虐げ、長吏はみな怨み怒りながら口に出せないこと。
- 罪の六。陛下の召し上がる大官の膳は数品にすぎないのに、嚴嵩は珍味を極め、遠方の珍産で取り寄せぬものがない。九州万国が嚴嵩に仕えることが陛下に対する以上になっていること。
- 罪の七。先年、敵が京畿に迫って上下が憂懼していたときにも貪欲をいっそう募らせ、民間の歌謡が京師から沙漠にまで広まり、天下の百姓が早く死ねと天に祈るありさまなのに、平然として止めようとしないこと。
- 罪の八。朝士を募って乾児・義子とすること三十人余り、尹耕・梁紹儒のようにすでに露見した者もいる。この輩は実質は衣冠を着けた盗賊であり、その爪牙となって虐政を助け、朝廷の恩威が陛下から出ないようにしていること。
- 続けて、天下が頼りとするのは財と兵であるのに、無能な文吏が賄賂で門から出れば必ず民の財を搾り、百を取っては千を求め千を取っては万を求めて民は困窮し、無能な武将が賄賂で門から出れば必ず軍の兵糧をかすめ、欠員を補わず期日を過ぎても支給せず、兵は疲弊すると論じた。
- 近ごろ各地で地震があるのは臣下の専権の兆しであるが、今日の専権者で嚴嵩より上の者があろうか。陛下の内蔵は諸辺の一年分の費用にも足りないのに、嚴嵩の蓄えは数年を賄える。売官の令を出して辺費を助けるより、この国を蝕み民を害する賊を除き、その家を没収して患いを緩めるべきだ、とした。
- 最後に、この数年、嚴嵩を論じた者は廷杖で死ぬか辺塞に使役されるかであり、自分にも身も家もあって惜しくないわけがないが、代々国恩を受けた身として、祖宗の天下が賊嵩の手で壊れるのを見るに忍びないのだ、と結んだ。
左遷と父の連座
- 上疏が通政使の趙文華のもとに届くと、趙文華はひそかに嚴嵩に見せ、数日留め置いてから上申した。おかげで嚴嵩は先手を打つことができ、王宗茂は大臣を誣告した咎で平陽縣丞に落とされた。
- 王宗茂は上疏の際に自ら必死を期していたので、貶官ですんだと知ると平然と都を出た。着任して半年、母の喪で帰郷した。
- 嚴嵩は恨みを晴らしきれず、父の橋の官を奪った。橋は憤懣のうちに没した。嚴嵩が宰相を罷めた日に、王宗茂もまた没した。隆慶初年(1567年)、光禄少卿を追贈された。