王杲の獄をめぐる連名の上疏
- 厲汝進は字を子修といい、灤州の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。池州推官に任じられ、召されて吏科給事中となった。
- 湖廣巡撫の陸杰が顯陵の工事完成により工部侍郎に召されると、厲汝進は、陸杰は日ごろ清議に背いており司空の次官にふさわしくないと述べ、あわせて尚書の甘為霖・樊繼祖の不適格を弾劾した。容れられなかった。三度遷って戸科都給事中に至った。
- 戸部尚書の王杲が投獄されると、厲汝進は同僚の海寧の查秉彛、馬平の徐養正、巴縣の劉起宗、章邱の劉禄と連名で上疏し、両淮副使の張禄が使者を都に送り込んで広く結託し、太常少卿の嚴世蕃、府丞の胡奎らはみな賄賂を受けて依頼に応じており証拠もある、世蕃は父の権を盗んで振るい賄賂を貪って威勢を張っていると論じ、言葉は倉場尚書の王暐にも及んだ。
- 嚴嵩は上疏して自ら弁明し、あわせて宦官に助けを求めて帝の怒りをあおった。帝は彼らが王杲を弁護したものと責め、厲汝進に廷杖八十、他の者に六十を加えたうえ、雲南・広西の典史に落とした。
- 翌年、嚴嵩は考察に事寄せて厲汝進の職を奪った。隆慶初年(1567年)、もとの官に起用されたが、入京前に没した。
厲汝進の同志たち――查秉彛・徐養正・劉起宗・劉禄
- 查秉彛は黄州推官から戸科左給事中を歴任し、たびたび時事について建言し、順天府尹で終わった。
- 徐養正は庶吉士から戸科右給事中を経て、隆慶年間に南京工部尚書に至った。
- 劉起宗ははじめ衢州推官に任じられ、召されて戸科給事中となった。延綏が続けて飢饉に見舞われた際、国庫金による救済を求めた。遼東苑馬寺卿で終わった。
- 劉禄は行人司から戸科給事に抜擢され、左遷後に自ら辞して帰郷した。