嚴嵩弾劾の疏
- 徐學詩は字を以言といい、上虞の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士。刑部主事から郎中を歴任した。
- 嘉靖二十九年(1550年)、俺答(諳達)が京師に迫って退いたのち、廷臣に敵への対策を述べよとの詔が出た。諸臣の多くが些末な事を拾って応じる中、徐學詩は「大奸が国政を握っていることが乱の根本である。根本を除かずに外患を防げるか」と憤り、上疏した。
- 大学士の嚴嵩は輔政十年、奸貪はなはだしく、内は権貴と結び外は小人と組み、文武の人事はすべて厚い賄賂によっており、そのため彼らは軍民から搾り取って侵略の禍を醸成した。国事がここに至ってなお「兵は不祥の器」といった議論を持ち出して諮問をごまかしている、と述べた。
- 具体的には、都に騒動があったのに乗じてひそかに財貨を南へ送り、大車数十輌・楼船十余艘が水陸の道に連なって人目を驚かせたこと、職を奪われた総兵官の李鳳鳴から二千金を受けて薊州を鎮めさせ、老いて廃された総兵官の郭琮から三千金を受けて漕運を督させたことを挙げ、この類は数えきれないとした。
- 朝廷じゅうが嘆き憤りながら誰一人逆らえないのは、内外に張り巡らされた結託が積年で勢いを成しているからであり、その子の世蕃はまた凶猾な性で父の権を勝手に振るい、諸官庁の奏請はまず父子に伺いを立ててからでなければ陛下に達しない、と論じた。
- 嚴嵩の力を、他人の手を借りて追い落とすに足る権力、先手を打って人を制する策謀、交わりを広げて身を固める勢利、罪を覆い隠す文辞の巧みさ、利に趨り害を避ける機敏さ、人の歓心を買い口を封じる私交と甘言、と列挙した。
- そのため嚴嵩を論じた者は、直言した時点では表立って禍を受けなくとも、必ず事にかこつけ人を使って人事・考課の場でひそかに討たれる。前の給事中の王曄・陳塏、御史の謝瑜・童漢臣らは当時は寛大な処分ですんだが、いま彼らはどこにいるのか、と述べた。
- 結論として、嚴嵩父子を罷めて忠良の者と代えれば外患はおのずと収まる、とした。
削籍と「上虞四諌」
- 帝は上奏を見てかなり心を動かされたが、方士の陶仲文がひそかに「嚴嵩は孤立して忠を尽くしており、徐學詩はある者に頼まれて私怨を晴らそうとしているだけだ」と言上した。帝はこれで怒り、詔獄に下した。
- 嚴嵩は落ち着かず辞任を願い出たが、帝は手厚い詔で慰留した。嚴嵩は謝意を表しつつ、世蕃のために帰郷を願う体裁を取ったが、帝はこれも許さなかった。徐學詩は結局籍を削られた。
- 先に嚴嵩を弾劾した葉經・謝瑜・陳紹は徐學詩と同郷で、当時「上虞の四諌」と称された。
- 隆慶初年(1567年)、徐學詩は南京通政參議に起用されたが、赴任前に没した。大理少卿を追贈された。
徐學詩の族兄・應豐の死
- はじめ徐學詩の族兄の應豐が能書を買われて中書舍人に抜擢され、無逸殿に勤めて嚴嵩の所業をすべて知っていた。嚴嵩は徐學詩の疏が應豐の入れ知恵だと疑い、考察の機会に吏部に属して斥けさせた。
- 應豐が迎和門に出て辞去を願い出ると、特旨で留用された。嚴嵩の怒りはいっそう募り、数年後、詔書の書き誤りを口実に帝に讒言して、ついに杖殺した。
葉經――襲爵の賄賂と郷試録の筆禍
- 葉經は字を叔明。嘉靖十一年(1532年)の進士。常州推官を経て御史に抜擢された。
- 嚴嵩が礼部にあったとき、交城王府の輔國將軍である表柙が郡王の爵を襲おうと図り、秦府永壽王の庶子の惟燱と嫡孫の懐墡が襲爵を争って、いずれも嚴嵩に重い賄賂を贈り、嚴嵩がこれを承知していた。
- 嘉靖二十年(1541年)八月、葉經はこの件を挙げて嚴嵩を弾劾した。嚴嵩はひどく恐れ、必死に取り繕って弁明の疏を出した。帝は襲爵の件を廷議に付し、嚴嵩は不問とした。嚴嵩はこれで葉經を恨んだ。
- さらに二年後、葉經が山東を按察して郷試を監督し、試験録を上申すると、嚴嵩はその策問の文言を誹謗だと指摘して帝の怒りをあおった。葉經は廷杖八十を受けて庶民に落とされ、傷が重く没した。
- 提調の布政使の陳儒、参政の張臬、副使の談愷・潘恩もみな辺境の典史に左遷された。嚴嵩の報復である。
- 穆宗が即位すると葉經に光禄少卿を追贈し、子一人を任官させた。陳紹は韶州知府で終わった。