嚴嵩を李林甫・盧杞に比す
- 何維栢は字を喬仲といい、南海の人。嘉靖十四年(1535年)の進士。庶吉士に選ばれ御史を授けられた。
- 謹身殿への落雷に際し、天下が困窮して各地で流民が生じているのに担当官は増税を議しており、これでは民が盗賊にならずにすまないと論じ、沙河行宮・金山功徳寺の造営工事および安南への問罪の出兵の中止を求めた。帝はかなり嘉納した。まもなく病を理由に帰郷した。
- のち起用されて福建の巡按となる。嘉靖二十四年(1545年)五月、大学士の嚴嵩の奸貪の罪を弾劾し、これを李林甫・盧把(盧杞の誤りか)になぞらえ、さらに嚴嵩が顧可學・盛端明を推挙して調薬にあたらせ、邪な手立てで寵を求めていると述べた。
- 帝は激怒して官を遣わし逮捕させた。士民が道をふさいで泣き叫んだが、何維柏は意気自若としていた。詔獄に下され、廷杖のうえ除名され、二十余年を郷里で過ごした。
隆慶・萬曆の再起と張居正との対立
- 隆慶改元(1567年)、召されて復官し、大理少卿に抜擢、左僉都御史に遷った。□(底本欠字)、上疏して、日々便殿に出て執政の大臣を召して政事を諮り、才徳ある大臣と講読の儒臣を選んで交替で宮中に入直させること、日常の起居には慎み深い内侍を選んで聖躬を守らせ、行動と休息に節度を持たせること、真冬の厳寒でなければ朝講を休まないことを求めた。裁可の返答があった。
- 左副都御史に進んだが母の喪で帰郷。萬曆初年に朝廷に戻り、吏部左侍郎・右侍郎を歴任し、官を売る弊害を強く論じた。
- 御史の劉臺が大学士の張居正を弾劾し、張居正が辞任を願い出たときには、何維柏が九卿を率いて留任を唱えた。
- ところが張居正が父の喪に遭い、詔で吏部に留任を諭させようとしたとき、尚書の張澣が何維栢に相談すると、何維柏は「天経地義(親の喪は動かせぬ道理)をどうして廃せようか」と答え、張澣はこれに従って取りやめた。張居正は怒り、詔を取って張澣を罷免し、何維柏の俸を三か月停めた。
- ほどなく南京禮部尚書として出され、考察の自己申告に際して張居正が内から罷めさせた。没後、端恪と諡された。