明史卷二百十 列傳第九十八 謝瑜

嚴嵩弾劾の口火

  • 謝瑜は字を如卿といい、上虞の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。南京御史から北の御史に転じた。
  • 嘉靖十九年(1540年)正月、礼部尚書の嚴嵩がたびたび弾劾されて辞任を願い出、帝が慰留したとき、謝瑜は、嚴嵩は上辺の言葉を飾って君を欺き言官を押さえつけており、明堂の大礼や南巡といった盛事を持ち出して弁解し、諸臣の中に陛下のために働く者はいないと言って聖怒をあおろうとしている、奸状は明白だと論じた。
  • 帝は上疏を留め置いて下さなかった。嚴嵩は弁明の上で「謝瑜は臣を攻撃してやまず、朝廷と勝負を争おうとしている」と述べ、帝はかえって謝瑜を叱責し嚴嵩を手厚く慰めた。

張瓉と「四凶」の疏

  • 二年後、嚴嵩はついに宰相に用いられた。その一か月余り後、謝瑜は再び上疏した。
  • 武宗の時代は遊興にふけって辺防が壊れるはずなのに壊れず、いまは聖明の世で辺防は固まるはずなのに大いに壊れているのは、大臣が国のために不忠であり、陛下の任用が誤っているためだ、と論じた。
  • 張瓉が中枢にあって兵を掌握して以来、天下に兵がなく、将を選んでも天下に将がいない。世評は張瓉を「風貌堂々たる福将」と言うが、辺境が静まり天下が安泰であってこそ福と言える。いま張瓉は功もないのに恩蔭を重ね、罪があっても剥奪が及ばない。これはその身一人の福であって、軍国の福ではない、とした。
  • さらに、舜が四凶を誅して万世に聖と称されたことを引き、張瓉・郭勛・嚴嵩・胡守中こそ聖世の四凶であり、陛下は一か月ほどのうちにすでにその二人を除かれた、残る二凶も追放して舜の功を全うされよ、と求めた。
  • 大学士の翟鑾についても、廃されていたところを起用され巡辺を委ねられながら、悠々と時を過ごし供応に浪費し、賄賂を積む者を才ある者とし淫楽を献じる者を敬うとみなし、辺軍をいっそう痩せさせ辺備をいっそう緩ませた、こんな巡辺なら何の役に立つのか、と論じた。
  • 結論として、政の根本を清めなければ天下は治まらず、兵の元締めを替えなければ武功は振るわない、とした。上疏は留め置かれて下されず、嚴嵩が再び弁明すると、帝はまた嚴嵩を慰め、謝瑜は重ねて叱責を受けた。

郭勛の鎮守内臣復活案を退ける

  • 謝瑜がまだ御史であったころ、武定侯の郭勛が時政を論じて大小の諸臣はみな任に堪えないとこきおろし、内侍を再び地方に派遣して鎮守させるよう求め、詔が出てこれを認めた。
  • 謝瑜は抗議の上奏をして、郭勛が論じた諸事は漠然としており、鎮守の復活こそが本意である、郭勛は内侍と通じて彼らのために利を求め、後日の重い賄賂を当て込んでいる、と述べた。
  • また、官吏が貪濁なのは陛下に腹心・耳目となる者が地方にいないからだという郭勛の言、文武が奸を抱えて事を避けるので内臣に弾劾させよという言に対し、内臣が権を握った正徳の時代が太平の極致だったとでもいうのか、と反論した。
  • 鎮守内臣を廃したのは聖明の善政であるのに郭勛はこれを偏私と誹り、朝廷の百官はみな天子の耳目であるのにこれを任に堪えないと誹る。陛下に天下の士大夫すべてを疑わせ、ひとり宦官だけを腹心耳目として頼らせようというのであって、郭勛は陛下をどのような君主と見ているのか、と述べた。
  • 給事中の朱隆禧も同じ趣旨を述べたため、郭勛の奏請はようやく取りやめになった。

除名と追贈

  • このころ帝は嚴嵩に傾いてはいたが、まだ言官を深くは罪しておらず、嚴嵩も政権を得たばかりで露骨に陥れることを控えていたため、謝瑜は職に留まることができた。
  • まもなく別件にかこつけて官を貶められ、さらに三年後の大計(人事考課)で、嚴嵩がひそかに担当者に示唆して黜けさせ、上申の際には貪酷の例に準じて除名させた。謝瑜は廃されたまま家で終わった。
  • 隆慶初年(1567年)、太僕少卿を追贈された。

王曄――嚴嵩・郭勛の癒着を突く

  • 王曄は字を韜孟といい、金壇の人。嘉靖十四年(1535年)の進士。吉安推官に任じられ、召されて南京吏科給事中となった。
  • 嘉靖二十年(1541年)九月、同僚とともに、外敵が横行しているのに兵部の張瓉および総督尚書の樊繼祖、新任侍郎の費宷は重責に堪えないと上言した。帝は担当官庁に回した。
  • 二か月後、再び張瓉を弾劾し、あわせて礼部尚書の嚴嵩、総督侍郎の胡守中が大奸の郭勛と結託していること、嚴嵩の邸宅は郭勛の手の者が代わりに建てたものであることを論じた。
  • 翌月、御史の伊敏生・鄭芸・陳策も、嚴嵩の住居はもと郭勛の手の者である孫澐の家であり、孫澐が籍没された以上その邸宅も没収の対象に入るはずだと述べた。帝は怒って伊敏生らの俸を一級削り、嚴嵩は不問としたが、胡守中は王曄の上疏によって処罰された。

王曄――嚴嵩父子への集中弾劾と失脚

  • 翌年秋、嚴嵩が入閣すると、吏科都給事中の沈良才、御史の王喻時らが相次いで嚴嵩を弾劾した。一か月後には山西巡按の童漢臣の上章があり、さらに一か月後には同僚の陳塏、御史の陳紹らの上章もあった。
  • いずれも嚴嵩の奸貪を論じたもので、王曄の疏は嚴嵩の子の世蕃にも及び、とりわけ切実であった。帝はいずれも取り上げなかった。
  • 嚴嵩は深く恨んだが、手を下す機会がなかった。しばらくして王曄が山東僉事となり、勤務評定のため入京する途中で病になり期日に遅れると、嚴嵩はそれを口実に官を奪った。
  • 王曄は台官の時代に地方長官三十九人を弾劾して罷免させ、剛直の評判が高かった。帰郷後は家財もなく、数年で没した。

王曄の同志たち――伊敏生・鄭芸・陳䇿・沈良才・喻時・陳塏

  • 伊敏生は上元の人、鄭芸と陳䇿はともに莆田の人。伊敏生は山東参政まで、陳䇿は台州知府まで進み、鄭芸は御史で終わった。
  • 沈良才は泰州の人。庶吉士から出発し、兵部侍郎まで歴任した。嘉靖三十六年(1557年)の大計で自己申告し、すでに南京へ転じていたが、嚴嵩が南京の科道の拾遺の疏に批を付け足してその職を落とした。
  • 喻時は光山の人、南京兵部侍郎まで至った。

童漢臣――嚴嵩に排斥される

  • 童漢臣は錢塘の人。魏縣知縣から入って御史となった。敵が宣府・大同に大挙侵入したとき、総督の樊繼祖らが敗戦を隠して三度も勝報を上げたので、童漢臣らがこれを弾劾し、樊繼祖らは処罰された。
  • 山西を按察した際には諸将を督して、太原に迫った俺答(諳達)の軍を撃退した。ちょうど嚴嵩を弾劾したところで、その怒りに触れていた。
  • 翌年、童漢臣は巡撫の李玨とともに樊繼祖らの失態を調査して上申したが、その章が吏部に回された。童漢臣はさきに嚴嵩とあわせて吏部尚書の許瓉も弾劾しており、許瓉も童漢臣を恨んでいたので、童漢臣は報告を遅らせた咎で処分すべきだと言い出した。嚴嵩がそのまま裁可の案を作り、李玨は一階を降されて留任、童漢臣は湖廣布政司都事に左遷された。
  • 朝廷じゅうが嚴嵩に陥れられたと知っていたが、救える者はいなかった。のちに泉州知府となり、倭賊が城に迫った際に防衛の功があり、江南副使で終わった。
  • 陳塏は餘姚の人。のちに嚴嵩によって斥け罷免された。