篇首の立伝者一覧
- 桑喬(胡汝霖)
- 謝瑜(王曄、伊敏生・童漢臣ら)
- 何維栢
- 徐學詩(葉經・陳紹)
- 厲汝進(查秉彛ら)
- 王宗茂
- 周冕
- 趙錦
- 吳時來
- 張翀
- 董傳䇿
- 鄒應龍(張檟)
- 林潤
出自と山西按察
- 桑喬は字を子木といい、江都の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。
- 嘉靖十四年(1535年)冬、主事から御史に転じ、山西の巡按として出る。管内がたびたび敵の侵略を受けたため、徭役と賦税を全面免除し戦死者の家を手厚く救うよう上奏した。
- 参将の葉宗らが一万の兵を率いて荆家莊に至ったところ伏兵にかかって大敗し、敵は天城・陽和まで深く侵入した。二か月のうちに五度も襲撃を受けている。
- 巡撫の樊繼祖、総兵官の魯綱以下を桑喬がことごとく弾劾し、副将の李懋と葉宗ら六人が逮捕・処罰された。
嚴嵩を最初に弾劾する
- 嘉靖十六年(1537年)夏、謹身殿に落雷があり、意見を求める詔が出た。桑喬は同僚とともに三件を挙げ、両宮・山陵の造営に横領が多いこと、濟農(賑済の財)が恣意的に扱われていること、辺境の備えが緩みきっていることを述べた。
- そのうえで、災異に際して修省するというのは結局は人事の問題であり、人事とは官の選択にほかならないとし、尚書の嚴嵩および林廷㭿・張瓉・張雲はいずれも上は国恩に背き下は世論を裏切っており、災変はこの四人が招いたものだと論じ、四人の罷免を求めた。
- 詔は林廷㭿と張雲を致仕させ、嚴嵩と張瓉は留任とした。嚴嵩が再度弁明の上疏をして論者を誹謗すると、給事中の胡汝霖が、大臣は論じられたら罪を引いて退くべきなのに、嚴嵩は醜行を抱えて世論を招きながら言を弄して弁明し、ひそかに言官を排斥するのは大臣の体を成さないと述べた。帝は胡汝霖の指摘どおりに嚴嵩を戒飭する詔を下した。
- このとき嚴嵩が尚書となって半年ほど、交友を養い名声を高めて出世の地固めをしていた時期で、朝廷はまだ誰もその奸を知らなかった。桑喬ひとりがこれを最初に暴いたのである。
失脚と戍所での死
- 桑喬はまもなく畿輔の巡按となったが病を理由に辞退し、都御史の王廷相から責任回避だとして弾劾された。嚴嵩がこれに乗じて罪を仕立て、詔獄に下されて廷杖を受け、九江へ流された。
- 戍所に二十六年いて没した。隆慶初年(1567年)、規定どおり贈官と恩恤を受けた。
胡汝霖――嚴嵩に転じて栄達し、嚴嵩の失脚とともに官を奪われる
- 胡汝霖は綿州の人。庶吉士から戸科給事中に任じられた。
- 嘉靖二十年(1541年)四月、九廟の火災に際し、同僚の聶静・御史の李乘雲とともに、消火に手間取った文武大臣二十六人を弾劾した。嚴嵩もその中に入っていた。帝は弾劾が網羅的でないと怒り、詔獄に下して取り調べさせ、いずれも位階を落として外任に回した。
- 胡汝霖は太平府経歴となったが、貶官されると嚴嵩に取りなしを頼み、逆に嚴嵩に付いて昇進し、右僉都御史・甘肅巡撫にまで至った。嚴嵩が敗れると嚴嵩の一党として官を奪われた。