明史卷二百九 列傳第九十七 楊允繩

出自と初期の職務

  • 楊允繩は字を翼少といい、松江華亭の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士となり、行人に任じられ、久しくして兵科給事中に抜擢された。
  • 嚴嵩がひとり宰相であったとき、閣員を廷推せよとの詔が下った。允繩は同僚の王徳・沈束・陳慎とともに、輔臣を選び、埋もれた人材を収録する二事を建言した。
  • ほどなく命を受け、英國公の張溶、撫寧侯の朱岳、定西侯の蔣傳らと会同して閲武場で襲爵候補の子弟を選抜した。指揮の鄭璽が突然「寇が来た」と伝えたので、溶らはみな恐れて逃げたが、允繩ひとりは動かなかった。そこでこれを奏し、璽は職を剥奪され、溶と岳は営務を奪われ、傳らは俸を罰せられた。これによって允繩は名を知られた。
  • また兵部尚書の趙廷瑞を弾劾して罷めさせた。

諫官としての建言

  • 諫官の職にあること久しからずして、たびたび疏を上げ、提學の憲臣は行いと義を旨として選ぶべきこと、府・州・縣の職は土地の煩簡を量って三等に分けるべきことを言上し、いずれも裁可された。
  • 諳達が侵入し、朝議が兵事を急いだとき、允繩は次のように請うた。五軍都督府・府軍前衛および錦衣衛の堂上官は、軍政の考選の年に当たるごとにそれぞれ疏を具して自ら申し述べ、科道官の拾遺に委ねること、騰驤四衛および錦衣衛の指揮以下は兵部の考察に委ねること。詔していずれも従い、令として定められた。
  • さらに辺境防禦の四事を陳べて裁可された。
  • 再び遷って户科左給事中となったが、病と称して帰郷した。久しくしてもとの官で起用された。

督撫の賄賂の弊を論ずる

  • 三十四年(1555年)九月、上疏して倭の害を論じ、その弊の根源を推し究めて言った。近ごろ督撫の命令が有司に行われないのは、官が尊くなく権が重くないからではない。
  • 督撫は着任すると例によって権要に賄賂を贈り、これを「謝禮」と呼ぶ。奏請することがあれば贈り物を添え、これを「候禮」と呼ぶ。任期満了で転任を運動するとき、難を避けて辞職を求めるとき、罪を犯して取り繕おうとするとき、失態を庇ってもらおうとするとき、賄賂を運ぶ荷が道に満ち、額は計り知れない。
  • 督撫はそれを有司から取り、有司はそれを小民から取る。有司は恩着せがましく上に仕え、督撫は恥じらいもなく下に接する。上下が互いに欺き合い、風俗は振るわない。不肖の吏はその間でさらに掠め取り、一を指して十を課する。
  • 生き残ってわずかに命をつなぐ民は、必ず立ち上がって盗となろう。隠れた憂いは海島の間だけにとどまらない、と。

胡膏の一件と獄死

  • その冬、光祿を巡視した。光祿丞の胡膏が物価を偽って水増ししていたので、允繩は同事の御史である張巽言とともにこれを弾劾し、法司に下して調査させた。
  • 膏は窮して言った。元典(斎醮の典礼)は重々しく、用いる品物を漫然と数合わせに取るわけにはいかないのに、允繩は臣の選り分けが精細すぎるのを憎み、「醮斎の用は間に合わせで足りる。何も精選する必要はない」と言って斥けた。彼が元修(斎醮の儀)を欺き謗ることはこの通りです、と。
  • 帝はそこで激怒し、允繩と膏を詔獄に下した。刑部尚書の何鰲は允繩を「儀仗内にて事を訴えて不実」の律に当てて絞首とした。帝は巽言ともども廷で杖を加えるよう命じた。巽言は三階を奪われ、膏は外任に転じられた。五年たって允繩はついに西市で死んだ。
  • これに先立って、馬從謙という者が醮斎を謗ったとして杖死していた。
  • 穆宗が即位すると允繩に光禄少卿を追贈し、子一人を任官させた。天啟の初め、忠恪と諡された。膏はほどなく貪汚で弾劾され誅された。

馬從謙(附伝)

  • 馬從謙は字を益之といい、溧陽の人。嘉靖十年(1531年)に順天の郷試で首席となり、三年を越えて進士となり、工部主事に任じられた。出て二洪の治水に当たり政績があった。
  • 主客に転じ、尚寳丞に抜擢され、内閣の制誥を掌った。章聖太后が崩じたとき、帝に三年の喪を行うよう勧めたが返答はなかった。
  • やや進んで光禄少卿となった。提督の中官である杜泰が毎年巨万を掠め取っていたのを、從謙が奏して暴いた。泰はそこで從謙が誹謗していると誣告した。
  • 巡視の給事中である孫允中、御史の狄斯彬が從謙の言うとおりに泰を弾劾した。帝はちょうど人が醮斎を言うのを憎んでいたのに、從謙の奏がかなりそれに触れていたので、怒って從謙と泰を詔獄に下した。
  • 担当官が「誹謗には証拠がない」と述べると、帝はますます怒って從謙を法司に下し、允中と斯彬は党を庇ったとして辺方の雑職に落とした。法司が從謙を遠辺の戍と擬すると、帝は廷杖八十のうえ烟瘴の地に戍せと命じ、從謙はついに杖の下で死んだ。泰は誹謗の臣を摘発できたということで罪を赦された。三十一年(1552年)十二月のことである。
  • 久しくして光祿寺が火災に遭うと、帝は「これは馬從謙の余孽の招いたものだ」と言った。
  • 隆慶の初め、先朝に建言して杖死した諸臣に恤典を行ったとき、中官が從謙を恨んで阻んだ。給事中の王治、御史の龎尚鵬が力争したが、帝は從謙の犯したところを「子が父を罵る」に比し、ついに許さなかった。

孫允中・狄斯彬(附伝)

  • 允中は太原の人。後にたびたび遷って應天府丞となった。
  • 斯彬は從謙と同郷の人である。

史論

  • 贊に言う。語に「君が仁であれば臣は直である」という。世宗の代に当たって、なにゆえ直臣が多かったのか。重い者は公然と誅され、次は長く獄に繋がれ、最も幸運な者でようやく貶斥で済んだ。無事に全うできた者はいない。それなのに主上の威が震えれば震えるほど士気は衰えず、竜の逆鱗に触れ頭を砕く者が相次いで抑えられなかった。難に遭ったときに平然と身を処したさまを見れば、頑なな者や気弱な者にも奮い立つところを知らせるに足りる。これこそ百余年の培養の効というものである。