明史卷二百九 列傳第九十七 楊繼盛

字は仲芳、別号は椒山、容城の人である楊繼盛。幼くして牛の世話をしながら学を乞い、十三歳で初めて師についた。嘉靖二十六年の進士で、韓邦奇に律呂の学を学んだ。兵部員外郎のとき、仇鸞の主張する諳逹との馬市に反対して「十の不可、五の謬り」を奏し、狄道典史に落とされたが、その地で学舎を興し煤山を民に取り戻して「楊父」と慕われた。鸞の奸が露顕して復権し、一年に四度遷任したのち、着任わずか一月で嚴嵩の十大罪と五奸を弾劾する疏を上った。裕王・景王に問えという一句を口実に詔獄に下され、三年繋がれた末に張經の疏の末尾に名を紛れ込ませる嵩の計で処刑された。享年四十。穆宗の即位後、直諫の臣の筆頭として太常少卿を追贈され、忠愍と諡された。

年表(4件)

出自と学問

  • 楊繼盛は字を仲芳といい、容城の人。七歳で母を失い、庶母が妬んで牛の世話をさせた。繼盛は里の塾のそばを通って里の子が読書するのを見て心から羨み、兄に頼んで塾師について学ばせてほしいと言った。兄が「お前は幼いのに何を学ぶのか」と言うと、繼盛は「幼い者に牛の世話ができて、学ぶことはできないというのですか」と答えた。兄が父に言い、学ぶことを許されたが、牧も廃さなかった。
  • 十三歳になって初めて師について学ぶことができた。家が貧しかったのでいっそう自ら刻苦した。郷試に及第し、國子監で学業を終えたが、徐階はしきりに彼を称賛した。
  • 嘉靖二十六年(1547年)の進士となり、南京吏部主事に任じられた。尚書の韓邦奇に従って学び、律呂の学を深く考え、自ら十二律を作って吹いたところ音がすべて調和したので、邦奇は大いに喜んで学ぶところをすべて授けた。繼盛の名はいよいよ知られた。

馬市反対の「十不可五謬」

  • 召されて兵部員外郎に改められた。諳逹が京師を蹂躙したとき、咸寧侯の仇鸞が勤王の功で寵を得た。帝は鸞を大將軍とし、寇の処理を任せた。
  • 鸞は内心では臆病で寇をひどく畏れ、互市を開いて馬を取引し、諳逹と和を結んで戦わずに済ませ、恩寵を固めようとした。繼盛は、仇と恥がまだ雪がれていないのに急に和を議して弱みを見せるのは国の大きな辱めだと考え、「十の不可、五の謬り」を奏した。その大要は次のとおりである。
  • 互市とは和親の別名である。諳逹はわが陵寝を蹂躙し、わが赤子を虐殺した天下の大仇である。それなのに先に和を結ぶ。不可の一。
  • さきに詔を下して北伐すると布告し、天下は聖意をはっきり知って日夜に徴発し修繕し兵糧を助けた。それを突然変えて和すという。天下に信を失う。不可の二。
  • 堂々たる中国が彼らと互市するのは、冠と履を取り違えることである。不可の三。
  • 海内の豪傑は競って腕を磨いて試されるのを待っているのに、一度に打ち捨てて用いなければ、いつか号令をかけようとしても誰が奮い立つか。不可の四。
  • 辺鎮の将帥が和議のゆえに美服を着て安逸をむさぼり、兵事に緩みが出る。不可の五。
  • かつては辺兵が私に境外と通じるのを吏がおおむね取り締まっていた。いまはそれを導いて通じさせることになる。不可の六。
  • 草むらに潜む盗賊が国威を恐れて放縦にできずにいるだけなのに、朝廷が畏れ怯えていると知れば、うかがい狙う気風が必ず開ける。不可の七。
  • 諳達が先年に深く侵入したのは、こちらの備えがなかったからである。一年備えたところで互市で終わってしまえば、彼は国に人がいると思うだろうか。不可の八。
  • あるいは諳達が約に背いて来ないかもしれず、来ても陰謀で伏兵を置いて突入するかもしれず、今日は市を開いて明日はまた侵すかもしれず、下等な馬で上等の値を要求するかもしれない。不可の九。
  • 毎年数十万の帛で数万匹の馬を得るなら、十年の後には帛が続かなくなる。不可の十。
  • 議者は「表向きは市を開いて羈縻し、内実は甲兵を整える」と言う。これが第一の謬り。寇の欲は飽くことがなく、必ず紛争に終わるのは明らかである。かりに内で武備を修めるのであれば、羈縻など要らない。
  • 「陰に市を開いてわが馬を増やす」と言う。これが第二の謬り。和すれば戦わないのだから馬をどこに使うのか。しかも彼らが良馬をこちらに与えるはずがない。
  • 「市をやめなければ彼らは入貢するだろう」と言う。これが第三の謬り。貢に対する賞は計り知れない。名は美しくても実は大損である。
  • 「諳達はわが市を利とするから必ず信を失わない」と言う。これが第四の謬り。わが市はその衆すべてに行き渡らせられるのか。行き渡らなかった者が掠奪に入らないと信じられるのか。
  • 「よい武器も不祥のものだ」と言う。これが第五の謬り。敵が仕掛けてきたのに応ずるのが、どこが「よい」ことか。人の身の四肢がみな癰疽で、毒が日ごとに内に攻めているのに、薬石を用いるのを憚ってよいだろうか。
  • この十の不可、五の謬りは明白で見やすい。思うに陛下のためにこの事を主宰する者があるので、公卿大夫は知りながら一言も言わないのだ。陛下は独断を奮い起こし、互市を言う者をことごとく調べ、明詔を発して将を選び兵を練られたい。十年を出ずして、臣は陛下のために諳達の首を藁街に竿にかけ、天下万世に示してみせよう、と。

狄道への左遷と治績

  • 疏が入ると帝はかなり心を動かされ、鸞および成國公の朱希忠、大學士の嚴嵩・徐階・吕本、兵部尚書の趙錦、侍郎の聶豹・張時徹に議させた。
  • 鸞は腕をまくって罵り、「小僧が目で寇を見たこともないから、そんな軽々しいことを言うのだ」と言った。諸大臣も「使者はすでに出立しており、途中で止めるのは難しい」と言った。帝はなお迷っていたが、鸞が再び密疏を進めたので、繼盛を詔獄に下し、狄道典史に落とした。
  • その地は蕃族の風俗が混じり、詩書を知る者はまれであった。繼盛は子弟の優れた者百余人を選び、三人の經師を招いて教えさせた。乗馬を売り、妻の衣装を出して田を買い、諸生の費用に充てた。
  • 縣に煤山があり蕃人に占められていて、民は二百里の外から薪を仰いでいた。繼盛が蕃人を呼んで諭すと、みな服して「楊公が我らの天幕をご入用でも差し上げます。まして煤山なら」と言った。蕃の民は彼を信じ愛して「楊父」と呼んだ。
  • その後、諳達がたびたび約を破って侵入し、鸞の奸が大いに露呈した。鸞は背に癰ができて死に、その屍は戮された。帝はそこで繼盛の言を思い出した。
  • ほどなく諸城知縣に遷り、一月余りで南京户部主事に転じ、三日で刑部員外郎に遷った。
  • このとき嚴嵩が最も権を握っており、鸞が自分を凌いだのを恨んでいたので、繼盛が真っ先に鸞を攻撃したことを内心よしとし、急に貴顕にしようとして、さらに兵部武選司に改めた。
  • しかし繼盛は鸞よりも嵩を憎んでいた。しかも謫籍から起用されて一年に四度も官を遷ったことを思い、国に報いる術を考えた。着任してわずか一月で嵩を弾劾する奏を草し、三日斎戒してから上呈した。

嚴嵩弾劾の十大罪

  • 奏に言う。臣は孤り直なる罪臣でありながら、天地のごとき恩を蒙って順を越えて抜擢されました。朝夕に慎み恐れ、報いる道を図ろうと思うに、賊臣の誅殺を請うより急なものはありません。
  • いま外の賊は諳達だけ、内の賊は嚴嵩だけです。内の賊を除かずに外の賊を除けた例はありません。昨年は春の雷が久しく鳴らず、占いに「大臣が政を専らにする」とあり、冬には日の下に赤い色があり、占いに「下に叛臣がいる」とありました。また四方に地震があり、日月が食を交えました。臣はこれらの災いはみな嵩が招いたものと考えます。嵩の十大罪をもって陛下に陳べます。
  • 一、高皇帝は丞相を廃し、殿閣の臣を置いて顧問に備え制の草案を見るだけとされた。それなのに嵩は堂々と丞相を自任し、およそ府や部の上申と覆奏はまず面前で伝えてから草奏させ、百官は命を請うて直房に市のように駆けつける。丞相の名はなくとも丞相の権を持ち、天下は嵩がいることを知って陛下がおられることを知らない。祖宗の成法を壊した大罪である。
  • 二、陛下が一人を用いれば嵩は「私が薦めた」と言い、一人を斥ければ「これは私の親しい者でないから罷めさせた」と言う。陛下が一人を赦せば「私が救った」と言い、一人を罰すれば「これは私に罪を得たから報いた」と言う。陛下の喜怒をうかがって威福をほしいままにするので、群臣は陛下に感ずるより嵩に感じ、陛下を畏れるより嵩を畏れる。君上の大権を盗んだ大罪である。
  • 三、陛下に善政があれば、嵩は必ず世蕃に「主上はここまでお考えにならない。私が議して成し遂げたのだ」と人に言わせる。また進呈した掲帖を刊行して世に出し『嘉靖疏議』と名づけ、天下に陛下の善をことごとく嵩に帰させようとしている。君上の治功を覆い隠した大罪である。
  • 四、陛下が嵩に票擬を掌らせるのはその職である。それなのに嵩はなぜ子の世蕃に代擬させ、また義子の趙文華らを集めて代擬させるのか。題疏を上げたばかりで天語が既に伝わってしまう。沈鍊が嵩を弾劾した疏を陛下が吕本に命じられたときも、本はただちに世蕃のもとへ密かに送って擬進させた。嵩は臣でありながら君の権を盗み、世蕃は子でありながら父の権を盗んでいる。だから京師に「大丞相・小丞相」の謡がある。奸なる子の僭越を放任した大罪である。
  • 五、嚴效忠・嚴鵠は乳臭い若者にすぎず、一度も行伍に入ったことがない。嵩はまず效忠に兩廣の功を冒させて錦衣所鎮撫を授けさせ、效忠が病と称すると鵠が兄の職を襲い、さらに瓊州の功を冒して千戸に抜擢された。そのため總督の歐陽必進は順を越えて工部を掌り、總兵の陳圭は次々に後府を統べ、巡按の黄如桂も急に太僕の次官となった。私党を借りて子孫を官につけ、子孫によって私党を引き上げている。朝廷の軍功を冒した大罪である。
  • 六、逆賊の鸞は先に下獄して罪を論じられていたのに、世蕃に三千金を賄して大将に薦められた。鸞が哈□(底本欠字)兒を捕らえた功を冒したときは、世蕃も官秩を加えられた。嵩父子は鸞を薦めえたと自ら誇っていたが、陛下に鸞を疑う御心があると知るや、互いに排斥し謗り合って以前の跡を消そうとした。鸞は賊と通じ、嵩と世蕃はまた鸞と通じた。背逆の奸臣を引き入れた大罪である。
  • 七、先に諳逹が深く侵入したとき、疲れて帰る敵を撃つのは一つの大きな機会であった。兵部尚書の丁汝夔が嵩に計を問うと、嵩は戦うなと戒めた。汝夔が逮捕・処断されると、嵩はまた論じて救うと騙した。汝夔は死に臨んで「嵩が私を誤らせた」と大声で叫んだ。国家の軍機を誤らせた大罪である。
  • 八、給事中の徐學詩が嵩を弾劾して任を解かれると、さらにその兄の中書舎人である應豐まで斥けようとした。給事中の厲汝進が嵩を弾劾して典史に落とされると、さらに考察によって吏部にその籍を削らせた。内外の臣で中傷された者は数えきれない。黜陟の大権を専らにした大罪である。
  • 九、およそ文武の遷任・抜擢は可否を論ぜず、ただ金の多寡を量って与える。将官は嵩に賄すために士卒を絞り取らざるをえず、有司は嵩に賄すために百姓を搾り取らざるをえない。士卒は身の置き所を失い、百姓は流離し、毒は海内に遍い。臣は今日の患いが境外ではなく国内にあるのを恐れる。天下の人心を失った大罪である。
  • 十、嵩が権を握って以来、風俗は大いに変わった。賄賂を贈る者は盜跖のような者でも薦められ、不器用な者は伯夷・叔齊のような者でも斥けられる。法度を守る者は迂遠とされ、巧みに取り繕う者は才能とされ、節操を励む者は激しすぎるとされ、走り回るのが上手い者は事に練れているとされる。古来、風俗の壊れ方が今日より甚だしかったことはない。嵩が利を好むので天下がみな貪を尊び、嵩が諂いを好むので天下がみな諂いを尊ぶ。源が清くないのに流れがどうして澄もうか。天下の風俗を損ねた大罪である。

嚴嵩の「五奸」

  • 嵩にはこの十罪があり、さらに五つの奸をもってこれを助けている。
  • 一、側近の侍従が意向を察知できることを知り、厚く賄して結び、陛下の言動挙措はすべて嵩に報らせている。陛下の側近はみな賊嵩の間諜である。
  • 二、通政司が出納を主ることに目をつけ、趙文華を使として置き、疏が届くとまず嵩に送って読ませ、それから御前に入れる。王宗茂が嵩を弾劾した章は五日留めてから上げられ、そのため嵩はあれこれ言い繕うことができた。陛下の喉舌はまさに賊嵩の鷹犬である。
  • 三、廠衛の探索を畏れて、子の世蕃に縁組を結ばせている。陛下は試みに嵩の諸々の孫の嫁がみな誰氏か問うてみられよ。陛下の爪牙はみな賊嵩の爪牙である。
  • 四、科道の官が多言なのを畏れて、進士はその私属でなければ中書・行人の選に入れず、推官・知縣は賄を通じなければ給事・御史の選に入れない。選ばれた後は、内では酒を酌み交わして歓を結び、外では贈り物が相次ぐ。好悪のままに弾劾の筆を授ける。俸を経ること五、六年で何の建言もなくとも京卿に抜擢される。諸臣は国家に背くのを忍んでも権臣に逆らおうとしない。陛下の耳目はみな賊嵩の奴隷である。
  • 五、科道は籠絡できても、部や寺の中に徐學詩のような者がいるのを恐れて、子の世蕃に才望のある者を選んで門下に置かせている。何か行いたい事がある者はまず嵩に報せ、あらかじめ手を打たせる。連絡し蟠り結び、根を深く蔕を固くし、各部の堂官・司官の大半はみなその羽翼である。陛下の臣工はみな賊嵩の心膂である。
  • 陛下はなぜ一人の賊臣を愛して、百万の蒼生が塗炭に陥るのを忍ばれるのか。
  • 大學士の徐階に至っては、陛下から特別の抜擢を蒙りながら、やはり事ごとに曖昧で正を持しようとしない。国に背いていると言わざるをえない。
  • どうか臣の言を聴き、嵩の奸を察し、あるいは裕王・景王の二王に召して問い、あるいは諸々の閣臣に諮り、重ければ法に置き、軽ければ致仕を命ぜられたい。内の賊が去れば外の賊は自ずと除かれ、諳達といえども必ず陛下の聖断を畏れ、戦わずして胆を失いましょう、と。

投獄と処刑

  • 疏が入ると帝は既に怒っていた。嵩は二王に召し問うという言葉を見て喜び、これを罪とできると考え、密かに帝に讒言を構えた。帝はますます激怒して繼盛を詔獄に下し、なぜ二王を引き合いに出したのかと詰問した。繼盛は「二王でなければ、誰が嵩を恐れないでしょうか」と答えた。
  • 獄が上申されると杖百を加え、刑部に罪を定めさせた。侍郎の王學益は嵩の一党で、嵩の依頼を受けて「詐って親王の令旨を伝えた」律を適用して絞首としようとした。郎中の史朝賓がこれに反対すると、嵩は怒って外に落とした。そこで尚書の何鰲は逆らえず、結局嵩の指図どおりに獄を成した。しかし帝はまだ殺そうとはしなかった。
  • 繋がれること三年。嵩のもとへ救いを求めて働きかける者があったが、その一党の胡植・鄢懋卿が「公は虎を飼う者を見なかったか。自ら患いを招くことになる」と唆した。嵩はうなずいた。
  • ちょうど都御史の張經・李天寵が死罪となった。嵩は帝の意を測って必ず二人を殺すと踏み、秋審のときに繼盛の名を付け加えて併せて奏し、裁可を得た。
  • その妻の張氏が闕に伏して上書して言った。臣の夫の繼盛は市井の言葉を誤って聞き、なお書生の見に囚われて、狂気の議論を発しました。聖明は即座に誅されず、吏の議に従わせてくださり、二度の判決でいずれも寛大な恩を蒙りました。それが今、突然に張經の疏の末尾に紛れ込んで、処決の旨を奉じております。
  • 仰ぎ思いますに聖徳は昆虫草木にまで所を得させようとされるもの、どうして一度の御一顧を惜しんで、伏せた盆の下にも光を垂れてくださらぬことがありましょう。もし罪が重くどうしても赦せぬのであれば、臣妾の首を斬って夫の誅に代えていただきたい。夫はたとえ遠く魑魅を防ぐ地に流されても、必ず戦場で死力を尽くして君父に報いましょう、と。
  • 嵩は握りつぶして奏さなかった。そこで三十四年(1555年)十月一日、西市で処刑された。年は四十であった。
  • 刑に臨んで詩を賦した。「浩気は太虚に還り、丹心は千古を照らす。生平いまだ恩に報いず、留めて忠魂となし補わん」と。天下の人はともに涙を流してこれを伝誦した。
  • 初め、繼盛が杖を受けようとしたとき、蚺蛇の胆を贈る者があった。繼盛は退けて「椒山には自ら胆がある。なぜ蚺蛇が要ろうか」と言った。椒山は繼盛の別号である。
  • 獄に入って傷がひどく、夜半に蘇生すると、磁の碗を割って自ら手で腐った肉を削り取り、肉が尽きて筋が膜にぶら下がると、それも手で切り落とした。獄卒は灯を持つ手が震えて落としそうになったが、繼盛の意気は平常のままであった。朝審のとき見物人は街路を埋め、みな嘆息し、涙を流す者もあった。
  • 七年の後に嵩は失脚した。穆宗が立って直諫の諸臣に恤典を行ったとき、繼盛を筆頭とし、太常少卿を追贈し、忠愍と諡し、祭葬を賜り、子一人を任官させた。その後さらに御史の郝杰の言に従って保定に祠を建て、旌忠と名づけた。

何光裕(附伝)

  • 後に繼盛とともに馬市を論じて罪を得たのは何光裕と龔愷である。
  • 光裕は字を思問といい、梓潼の人。嘉靖二十年(1541年)の進士となり、庶吉士に改められ、刑科給事中に任じられた。同僚の楊上林・齊譽とともに埋もれた人材を召すよう請い、帝は許したが、後に取りやめとなった。
  • 京營を巡視して尚書の路迎を弾劾し罷めさせた。給事中の謝登之、御史の曾佩とともに財の節約を建議し、無駄な費用が大いに省かれた。辺境の事が切迫すると、諸陵の守衛軍を整理するよう命じられ、弊を除く七事を箇条書きにして上げ、多くが裁可された。
  • たびたび遷って兵科都給事中となった。都指揮の呂元が縁故を頼って錦衣を得たこと、總旗の王松が功を冒して千户を襲ったことを、光裕はいずれも挙げて奏した。兵部尚書の趙錦が疏で弁明したが、帝は元を斥け、松を都察院の獄に下し、錦らの俸を奪った。
  • 仇鸞が馬市を開いたとき、尚書の史道にこれを主宰させた。道は諳逹の請いに従って粟や豆で牛羊と交換しようとした。光裕は御史の龔愷らとともに、道が萎えて相手に譲歩していると弾劾した。
  • 馬市が開かれた後、諳逹はさらに封号を請うた。光裕らは「いまその表の意は請い求めることにあるのに、道は謝恩だと解している。まして表文は賊の手から出たものではない。道が去らなければ、彼らには際限のない要求があり、こちらには必ず戦うという志がない。国事を誤ることは小さくない」と論じた。
  • 当時、帝はちょうど鸞に傾いていたので、光裕らが道を借りて鸞を論じ朝廷の意を探っていると責め、光裕と愷に八十余の杖を加え、俸を奪った。光裕は杖に堪えず卒した。隆慶の初め、太常少卿を追贈された。

龔愷(附伝)

  • 愷は杖を受けたが官はもとのままであった。ほどなく靖江王の驕り放題の状を列挙し、疏を上げて粤の寇への大征討を止めさせた。湖廣副使で終わった。
  • 愷は字を次元といい、松江華亭の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士である。