明史卷二百九 列傳第九十七 沈束

出自と周尚文の恤典を請う

  • 沈束は字を宗安といい、會稽の人。父の儘は邠州知州であった。束は嘉靖二十三年(1544年)の進士となり、徽州推官に任じられ、禮科給事中に抜擢された。
  • 当時は大學士の嚴嵩が政を専らにしていた。大同總兵官の周尚文が卒し、恤典を請うたのに、嚴嵩は阻んで与えなかった。
  • 束は言上した。尚文は将として忠義を自任し、曹家莊の戦いは奇功であった。官階は進められたが勲功には報いていない。爵を追贈して子孫に及ぼすべきである。ほかにも董𤾉・江瀚は力を尽くして強敵に抗し、続いて死んだ。既に廟に祀られてはいるが、祭を賜って死事を顕彰すべきである。いま当路の臣は思うままに与奪し、濫りに冒す者は幸いに恩を蒙り、忠勤の者はかえって捨て置かれる。これでどうして士気を鼓し軍心を励ませようか、と。
  • 疏が奏せられると嵩は大いに恨み、帝の怒りを煽って吏部・都察院に議させた。聞淵・屠僑らは「束に他意はない。ただ疎狂であるから懲らすべきだ」と述べた。帝はますます怒って淵・僑の俸を奪い、束を詔獄に下した。
  • その後、刑部が束を奏事不実として贖罪のうえ職に復すと定めたが、特命によって廷で杖を加え、なお詔獄に禁錮した。このとき束が諫官に入ってまだ半年に満たなかった。

長期の繋囚と妻の上書

  • 一年を越えて諳達が都城に迫ったとき、司業の趙貞吉が束の赦免を請うて罪を得た。以後は誰も敢えて言わなくなった。
  • 束は長く繋がれ、衣食もしばしば絶えたが、ただ日々『周易』を読んでその注解を書いた。
  • 後に同郷の沈鍊が嵩を弾劾すると、嵩は束と同族ではないかと疑って報復し、獄吏に命じてその手足に枷をはめさせた。徐階が説いてようやく免れた。
  • 嵩が位を退くころには、束が獄にあってすでに十六年になっていた。
  • 妻の張氏が上書して言った。臣の夫の家には老いた親があり、年は八十九、衰えと病が進んで朝に夕を計れません。かつて臣は束に子がないため妾の潘氏を迎えましたが、京師に着いたときには束は既に獄に繋がれておりました。潘は志を立てて他家に嫁がず、ともに旅舎に身を寄せ、機を織って夫の衣食に充てております。年月を重ねて悲惨きわまりない有様です。
  • 帰って舅に仕えようとすれば夫の粥の元手がなく、留まって夫を養おうとすれば舅は朝夕に命が尽きようとしております。思い巡らしても進退の策がありません。臣が夫に代わって獄に繋がれ、夫に父を送って喪の年を終えさせ、その後また戻って繋がれるようにしていただきたい。まことに陛下の極まりない徳でございます、と。
  • 法司もまた請うたが、帝はついに許さなかった。

釈放と晩年

  • 帝は言官を深く憎み、廷杖や流謫ではその言を止められないと考え、長く繋いで苦しめ、日々に獄卒にその言葉や飲食起居を奏させた。これを「監帖」といった。何も得られないときは、戯れ言でも報告させた。
  • ある日、鵲が束の前で鳴いた。束は戯れに「罪人に喜びが及ぶことがあろうか」と言った。獄卒がこれを奏すると、帝は心を動かされた。
  • ちょうど户部司務の何以尚が主事の海瑞を救おうとして疏を上げた。帝は激怒して以尚に杖を加えて詔獄に禁錮したが、束は釈放して家に帰した。
  • 束が帰ったとき、父は既に亡くなっていた。束は土塊を枕とし水を飲み、狂を装って自ら世を捨てた。わずか二か月で世宗が崩じた。
  • 穆宗が即位するともとの官で起用されたが赴かなかった。喪が明けると召されて都給事中となり、まもなく南京右通政に抜擢されたが、また病と称して辞し、布衣と粗食で家に老いを終えた。
  • 束は獄に繋がれること十八年、出たとき潘氏はなお処女のままであった。しかし束にはついに子ができなかった。