明史卷二百八 列傳第九十六 許相卿

出自と初期の諫争

  • 許相卿は字を伯台といい、海寧の人。正徳十二年(1517年)の進士。世宗が立つと兵科給事中に任じられた。
  • 宦官の張鋭・張忠が罪あって死刑と論定されたのに、帝は再び寛大に処そうとした。給事中の顧濟が疏を上げて争い、帝はこれを担当官に議させたが、なお死を免じようとした。相卿は「天下は陛下が孝宗のようであることを望んでいます。陛下はどうして自ら正徳の帝と同じところに身を置かれるのか」と言った。
  • 帝が興獻帝に皇号を加えることを議すると、相卿は重ねてこれを争った。

李賢の世襲に反対

  • 嘉靖二年(1523年)、中官の張欽の義子である李賢を錦衣衛の世襲指揮とする廕が詔された。
  • 相卿は言った。于謙の子の冕は錦衣千户どまり、王守仁の子の正憲は錦衣百户どまりであった。賢は中官の召使いにすぎないのに、かえってそれを超えている。忠勲の大臣の子孫がかえって近習の奴僕に及ばないのでは、国に殉じ職務に励む臣で心離れぬ者があろうか。部の臣である彭澤、科の臣である許復禮・安磐が相次いで言上したのに、いずれも拒んで容れられないのは、内侍を重んじ士大夫を軽んずることではないか、と。

崔文の一件と時政批判

  • さらに言上した。天下の政権が一つから出れば治まり、二つ三つに分かれれば乱れる。公卿大夫が参議すれば治まり、不当な者が僭越に干与すれば乱れる。陛下は継統の初めには老成の人を登用し、忠諫を容れ、僥倖を抑え、邪佞を追放され、明らかで剛毅であられた。ところが一期も経たぬうちに、偏った聴取と私的な親昵によって悪しき政が続けざまに行われ、明は少し曇り剛は少し弛み、権を操る術を得ないうちに、陰で伺い横から掠め取る者が中から制するようになった。
  • 崔文が邪法で君を欺いたことは、師保も台諫も申し上げたのに聴かれなかった。羅洪載は職を守って逮捕され、廷臣の疏は七十通に上ったのに行われなかった。近ごろはまた崔文の家僕を庇って法司の職掌を奪い、林俊を斥けて旨に違うとされ、言官の奏に怒られる。中人に関わる事となれば温い旨を下し、法を犯しても罪せず、願い出れば必ず容れられる。これでは正徳朝と何が違うのか。
  • 林俊は国の望みであり、その去る志は固い。俊が去れば俊に類する者も必ず留まらない。陛下は二三の近習の私人とともに天下を治めるおつもりか。
  • 今日の天下は先朝とは違う。武宗のときは形勢はすでに危うかったが元気はなお盛んで、調剤が適切なら立ち直らせられた。孝宗の遺沢を受け継いでいたからである。今日は病がやや癒えたようでも元気はすでに尽き、調剤の術がなければ立ち直れないところに至る。武宗の乱を受け継いでいるからである。
  • どうか乱れの機を深く察して政柄を取り戻し、崔文の輩を重刑に処し、そのうえで学に務め賢に親しみ、讒言を退け女色を遠ざけ、忠言を広く求め、民の隠れた苦しみを深く憐れみ、宮中と府中を一体とし上下の心を一つにされたい。しかる後に天下は為すべきことが為せる、と。
  • 同僚の趙漢らもみな崔文のことを言上したが、帝はついに聴かなかった。

晩年

  • ほどなく、給事中の李學曽・章僑、主事の林應驄がいずれも言事によって俸を奪われたので、重ねて上疏して諫め、帝が気は驕り志は怠り、進んで過ちを犯していると指弾した。言葉はきわめて痛切であった。
  • 給事中であった三年の間、言うことはすべて聴かれなかったため、病と称して帰郷した。
  • 八年(1529年)、「病の療養が三年以上に及び都に赴かぬ者はことごとく職を落とし閒住とせよ」との詔が出て、相卿はそのまま廃された。
  • 夏言はもと同僚として親しかったが、政を握ってから招いたところ、相卿は謝して応じなかった。