武宗への諫言
- 顧濟は字を舟卿といい、崑山の人。正徳十二年(1517年)の進士となり、行人に任じられ、刑科給事中に抜擢された。
- 武宗が南都から還って豹房に病臥し、江彩らだけが侍していたとき、濟は言上した。陛下は孤り外に身を寄せられ、両宮とは隔てられて骨肉は日々に疎くなっている。頼りとして安んじうる者は、いったい誰なのか。漢の高帝が数日病臥したとき、樊噲は門を押し開いて入り、高・趙の事をもって警めた。いまの群臣の中に噲のように憂える者がいないはずがない。どうか廷臣を慎重に選んで交替で入直させ、起居や動静をすべて知らしめ、いっさいの淫らな細工物や芝居など、生を損ない徳を損なう事は残らず退けられたい。そうすれば養生に道が立ち、御身も自ずと安らかになる、と。返答はなかった。
- 一月余りを越えて帝は崩じた。
世宗への上疏
- 世宗が即位したその月に、濟は上疏した。陛下は即位して弊を除き諫を容れられ、臣民は勇み立って徳化の成るのを見たいと思っている。しかし法を立てるより法を守るのが難しく、諫を聴くより諫を楽しむのが難しい。
- いま新政で改められたことの多くは奸悪な有力者や権勢を持つ寵臣に都合が悪い。彼らの根が深く、勝手放題がやまず、宮中に頼らねば必ず側近に取り入り、法の運用が固くなければ、この輩が群がってこれを壊す。これが法を守ることの難しさである。
- 唐の太宗は貞観の初めにはつねに群臣を導いて言わせたが、晩年になると諫める者はしばしば旨に逆らうとされた。陛下は真っ先に言路を開かれ、臣下はみな事に応じて忠を尽くしている。高遠な議論は迂遠に見え、切実直截な言葉は顔を犯すのが過ぎるように見えよう。しかし顔を犯すのを怒れば、その言葉は必ず入らず、迂遠と見なせばその計は必ず行われない。これが諫を楽しむことの難しさである、と。
- ほどなくまた、内臣の張雄・張鋭らは先帝を誤らせて既に逮捕・処断されたのに、また寛大な処置を得ようとしている、大義によって断じ、彼らの奸を売り込ませぬようにされたい、と言上した。帝はかなり嘉納した。
- さらに司禮の蕭敬が張鋭らを庇い、三法司の会同審問が曖昧で大臣の節がなかったことを弾劾したが、聴かれなかった。
- 帝が興獻帝に皇号を加えようとしたとき、濟は不可と言上した。
- ほどなく親の養育のため帰郷を願い、数年後に卒した。
顧章志(顧濟の子)
- 子の章志は嘉靖三十二年(1553年)の進士。累進して南京兵部侍郎となった。進奉の馬快船の定数を減らすよう奏請したので、南都の人々は彼を祀った。