明史卷二百八 列傳第九十六 齊之鸞

出自と武宗への諫言

  • 齊之鸞は字を瑞卿といい、桐城の人。正徳六年(1511年)の進士となり、庶吉士に改められ、刑科給事中に任じられた。
  • 十一年(1516年)冬、帝が京城の西のはずれに店舗を設けようとした。之鸞は言上した。花酒舖なるものが設けられ、車駕がお越しになるとも、朝廷がその利息を取るともいう。陛下は天子として貴く四海を富として所有しておられるのに、錐や刀ほどのわずかな利を競い、芸人の宿のような真似をされるのか、と。

朱夀への加爵に反対

  • 應州の戦勝が奏上されると、帝は「總督軍務威武大將軍總兵官の朱夀は賊を討って功があったので、特に公爵を加えるのがよい」との敕を下した。朱夀とは帝自身の仮の名である。制が下ると朝廷じゅうが驚愕した。
  • 之鸞は諸給事中とともに言上した。古来、天子が自ら戦陣に臨んで禍乱を鎮めた例はあるが、成功の後は南面して賀を受け、金石に刻み歌に伝えさせるだけであった。今日のような顛倒したかたちで爵を加えて労に報いた例はない。陛下がいかなる意図でこの不祥の挙に出て天下の耳目を驚かせ、百世の物笑いを残そうとされるのか分からない、と。
  • ほどなく、編修の王思、給事中の張原・陳鼎、御史の周廣・髙公韶・李熙・徐文華・李穏・施儒・劉寓生、僉事の韓邦奇、評事の羅僑を召し返すよう請うたが、いずれも聴かれなかった。

巡辺と南巡への諫言

  • 帝が辺境を巡ろうとして再び「威武大将軍」を自称した。御史の袁宗儒が疏で諫め、大學士の楊廷和・蔣冕・毛紀が進退を賭けて争った。
  • 之鸞は同僚とともに言上した。三人の大臣は師保の重責にあり、その身に国家の安危がかかっている。近ごろ相前後して病と称している。いま六飛(天子の車駕)が辺境に臨んで一月を越え、宗廟社稷と百官万民は空城の中に置き去りにされ、人心は不安に揺れ、政務は山積している。それなのに門を閉ざして去就の決を求めておられる。万一急な事が起きて失敗を招いたなら、三臣は何と言って天下に謝るのか。どうか社稷を重んじ、速やかに宮居にお戻りになり、大臣とともに治世を図られたい、と。
  • その後、御史の李潤らも重ねて争ったが、ついに顧みられなかった。

馬永成の一族への官と南巡伏闕

  • 之鸞は再び遷って兵科左給事中となった。
  • 中官の馬永成が死ぬと、その家の九十余人に官を与えよとの詔が下った。之鸞は言上した。永成は貴顕の身で政をとること十余年、兄弟・子姪はみな高い爵と美官を得ている。その仲間がまた願い出て、あわせて百人近くになろうとしている。永成に何の功があってこれほど恩が濫れるのか。天下がこれを聞けば人心は離れてしまう、と。
  • 帝が南巡しようとすると、之鸞は同僚および御史の楊秉中らとともに章を重ねて力諫した。章を出して二日たっても返答がなく、之鸞らは手立てを失って闕下に伏して命を待ち、辰の刻から申の刻に及んだ。帝が中官に諭を伝えさせてようやく退いた。
  • 翌日、帝は病と称して朝を免じ、之鸞らを罪に問おうとした。ちょうど諸曹の郎中である黄鞏らが連名の章で力諫したので、南巡は取りやめとなった。しかし鞏らは下獄して杖罰を受け、之鸞らも救うことができなかった。

宸濠の乱の紀功

  • 宸濠が反乱を起こし、張忠・許泰らが南征したとき、之鸞は左給事中の祝續とともに従軍して功を記録するよう命じられた。到着しないうちに賊はすでに滅んでいた。
  • 小人どもが王守仁を憎んであれこれと讒言したが、之鸞はその冤を力説した。忠・泰は逆党を広く探索して無辜の者を巻き込んだが、之鸞は多くの者を釈放させた。さらに田租の免除、力役の停止、未納分の寛免を請い、帝はかなり採用した。
  • 之鸞は初め徐の姓を冒していたが、このとき初めてもとの姓に復した。

世宗への上疏と晩年

  • 世宗が即位すると、まず上疏して言った。祖宗の法制は小人どもによってことごとく引っかき回された。それを救う道は、まず聖意を定め、次に言路を広げることにある。先朝の元凶は除かれたとはいえ、根は深く絡み合って蔓は広がっている。巧みに結び合い、あるいは擁立の策を定めた賞を求め、あるいは車駕を迎え扈従した労を騙って憐れみを取り寵を固めようとする者が出るのが心配だ。天下の事はこの輩にこれ以上壊されてはならない。言路は久しく権奸に塞がれてきたので、忠直の気を吐き出そうとすれば、忌諱を顧みず耳に逆らう言葉になるのは避けられない。それを嘉して寛くお容れいただきたい。少しでも抑えつければ、小人がそれに乗じて忠直の士を仇とし、言路はひとたび塞がれば二度と開けず、新政の大きな累となる。陛下がまことに近年の乱政をことごとく元に戻されるなら、中興の業はたちどころに見られましょう、と。帝はこれを嘉納した。
  • また許泰と兵部尚書の王憲を弾劾し、二人はついに譴責を受けた。
  • その秋の京官の大計(大規模な勤務評定)で中傷を受け、崇徳丞に落とされた。
  • たびたび遷って寧夏僉事となった。飢えた民が蓬の実を採って食としていたので、之鸞はこれを二包み取り寄せ、一つを帝に献じ、一つを閣臣に贈った。あわせて、時事において憂うべきこと三つ、惜しむべきこと四つを挙げ、言葉はきわめて痛切であった。帝はこれを担当官に回した。
  • 当時ちょうど辺牆の大修築が行われており、之鸞は工事を監督した。巡撫の胡東臯はその能力を称え、自らに代えるよう推挙した。
  • 河南・山東の副使を歴任し、召されて順天府丞となったが、赴任する前に盗賊が発生したため留まって鎮撫した。ほどなく河南按察使に抜擢され、在官のまま卒した。