出自と御史時代
- 蕭鳴鳯は字を子雝といい、浙江山隂の人。若いころ王守仁に従って学び、鄉試に首席で合格した。正徳九年(1514年)に進士となり、御史に任じられた。
- 副史(副都御史)の胡世寧が下獄すると、章を上げてこれを救った。
髙公韶の一件
- 同僚で内江の人である髙公韶が王瓊の辺境政策の誤りを弾劾した。松潘副将の吳坤が成都に總兵を増置するよう請うと、瓊はただちに坤をその職に任じた。花當はもともと明に属する衛であったのに、いまや猖獗をきわめている。これは兵部の長官が人を得ていないために、小者に中国が軽んじられているのだ、というのが公韶の論であった。
- 瓊は弾劾されることを恐れて先手を打ち、中旨によって公韶が密かに外蕃と結び間諜と通じていると責め、自白させようとした。
- 鳴鳯は上疏し、公韶が瓊を弾劾して論じたのは天下の事であり、瓊が怒りに任せて弁じ立て、諫官の口を封じるべきではない、と述べた。中旨は鳴鳯が党を庇っていると責め、公韶を富民の典史に落とした。
- 鳴鳯はさらに江彬が寵を恃んでほしいままにふるまい、放置すれば手に負えなくなると弾劾した。士人の議論はその気概を壮とした。
學政と晩年
- ほどなく山海の諸関を視察した。武宗が塞外に出て虎を捕らえようとすると、鳴鳯は疏を上げて諫め、あわせて役人の収奪と軍民の苦しみの実情を詳しく述べた。返答はなく、病と称して帰郷した。
- 起用されて南畿の學政を督した。諸生は彼を先の御史陳選になぞらえて「陳は泰山、蕭は北斗」と言った。
- 嘉靖初年、河南副使に遷り、なお學政を督した。考察の拾遺で弾劾されたが、吏部はその学識と行いを惜しみ、湖廣兵備副使に転じさせた。翌年また改めて廣東の學政を督した。
- 鳴鳯は三度學政を督し、廉直で私心がなかったが、性格が剛直で執拗であり、怒りにまかせて肇慶知府の鄭璋を鞭打った。璋は恥じて憤り、自ら弾劾状を出して去った。これにより世論は大いに沸き立った。
- 八年(1529年)の考察のとき、両京の言官がこもごも章を上げて論じ、降調となった。さらに璋と互いに暴き合い、ともに巡按御史に下されて逮捕・処断された。鳴鳯はそのまま出仕しなかった。
髙公韶(附伝)
- 公韶は正徳年間に御史となり、かつて總兵官の郭勛の罪と、朶顔・花當の入寇について弾劾した。また總兵官の遂安伯陳鏸、中官の王欣、巡撫の王倬を弾劾し、鏸は職を解かれた。
- 世宗が立つと謫籍から起用され、右副都御史・巡撫江西を歴任し、户部右侍郎で終わった。