明史卷二百八 列傳第九十六 汪應軫

出自と南巡の諫止

  • 汪應軫は字を子宿といい、浙江山隂の人。若くして志操があった。正徳十二年(1517年)に進士となり、庶吉士に選ばれた。
  • 十四年(1519年)、詔して南巡が行われようとしたとき、應軫は強く諫めた。詔が下ってからというもの臣民は動揺して落ち着かず、臨清以南では生業を捨て商いをやめて山谷に逃げ隠れる者が多い、いま命を撤回しなければ不測の変が起きかねない、と述べた。
  • さらに漢の谷永が成帝を諫めた故事を引いた。陛下は高く美しい尊号を厭うて匹夫の卑しい呼び名を好み、しばしば深宮を離れて夜明けまで身を挺し、小人どもと連れ立っておられる、門戸を預かり宿衛を務める者は武器を執って空の宮を守っている――その言葉はいまの事態に的中している、と。谷永は諂いを事とする臣で成帝は暗愚な主であったが、永が言えば成帝はこれを容れた。まして聖明なる陛下が直諫を容れられぬはずがあろうか、と結んだ。
  • 疏は宮中に留め置かれた。應軫はさらに修撰の舒芬らとともに連署の章を重ねて請い、闕門に跪いて杖を受け、危うく死ぬところであった。

泗州知州

  • 庶吉士の教習が終わると給事中に任じられる予定だったが、外任に補せとの旨があり、泗州知州として出された。
  • 泗州は土地が痩せて民は怠惰で、農桑を知らなかった。應軫は耕作を勧め、桑を買って植え、江南から女工を募って蚕・繰糸・機織を教えた。これによって民は衣食に足りるようになった。
  • 帝が南征に赴くと、中使が街道筋を騒がせた。應軫は壮丁百余人を率いて水際に並ばせ、船が着くとすぐ曳いて州境の外へ出してしまった。
  • 車駕が南京に留まると、州に美婦で歌舞管弦をよくする者数十人を差し出せと命が下った。應軫は「州の女子は粗野で敕旨に応じられません。臣が以前に募った養蚕の婦人がおりますので、宮中に納めて蚕の技を伝えさせたく存じます」と言上した。この件はそのまま沙汰やみになった。

世宗朝

  • 世宗が即位すると召されて户科給事中となった。
  • 山東で鉱山の盗賊が蜂起して東昌・兖州を掠め、畿輔や河南の境に流れ込んだ。應軫は上奏した。盗を鎮めるのと外寇を防ぐのとは違う、外寇は境外へ追い払えばそれで済むが、盗を鎮めるのに境外へ出してしまうのは隣の国に禍を押しつけることだ。一方に警報がありながら討ち取らず他境へ蔓延させた場合は、いずれも重く論罪すべきだ、と。上奏は容れられた。
  • 給事中の職にあった一年余りの間に上疏は三十余通に及び、いずれも時弊を的確に突いた。
  • 親の養育に便利なようにと南への転任を願い出て、南京户科に移された。
  • 張璁・桂蕚が南京の部にあって獻皇帝の追尊を議していたころ、彼らは應軫の名声を知っており、味方に引き入れようとした。應軫は議論が合わず、ただちに「禮經に遵い正統を尊んで人心を安んじられたい」と奏請した。返答はなかった。

晩年

  • 嘉靖三年(1524年)春、江西僉事として出された。二年いて、病を理由とする疏を出し、命を待たずに帰郷したため、巡按に弾劾され、担当官に逮捕して尋問せよとの詔が下った。
  • 應軫は、親が老いていて兄弟も少ないことを自ら申し述べ、辞職して養育に当たりたいと願った。吏部がこれを取りなしたので逮捕は免れた。
  • 久しくして廷臣がこもごも推薦し、もとの官で起用されて江西の學政を視た。父の喪に服して帰り、病で卒した。