明史卷二百六 列傳第九十四 解一貫

十事の建言と直言

  • 解一貫は字を曽唯といい、交城の人。正徳十六年(1521年)の進士で工科給事中を除せられた。講学・修徳・親賢・孝親・任相・遠奸・用諫・謹令・戒欲・恤民の十事を陳べ、世宗はこれを嘉して納れた。
  • 嘉靖元年(1522年)、御史とともに牧馬の草場を検覈するために出た。太監の閻洪らが中官一人を同行させるよう奏請したが、一貫が不可と言ってやめになった。還朝して太監の谷大用・李璽が産を奪い民に殃をなした罪を弾劾した。帝はこれを宥したが、内臣や勛戚が拠っていた荘田はおおむね民に還された。
  • 帝が后の父である陳萬言のために邸を営み、極めて壮麗であった。一貫は力めて裁節を請うた。また楊廷和が織造を争うのを助けたが、いずれも容れられなかった。
  • 刑科左給事中・右給事中を歴した。雲南巡按の郭楠は建言により、廣東按察使の張祐と副使の孫懋は官校を辱めたことにより、いずれも逮え治められた。御史の方啟顔は宦官の家人を杖殺して落職し、元城知縣の張好古は戚畹の家族を拘え責めて級を鐫られた。一貫はいずれも論じ救い、旨に忤って俸を停められた。
  • まもなく吏科都給事中に進んだ。教授の王价と録事の錢予勛が考察で罷められながら、議礼に仮託して復用を希った。一貫らが、このままでは祖宗百年の制を壊すことになると言い、事はついに止んだ。

張璁・桂萼を論ずる

  • 張璁・桂萼が日々費宏を撃って已まなかった。一貫は同官とともに述べた。宏が朝に立って行った事は、古の大臣に照らせば議のないことはないが、仕えて今に至るまで大過は聞かない。璁と萼は平生奸険で、ただ議礼の一事がたまたま聖心に合ったので超擢され、以来寵霊を頼みにして朝士を凌ぎ轢り、宏とは積もる怨みが久しく、その位を奪って自分が居ようとしている。陛下は累なる疏をみな所司に付されたうえ、最後に「爾ら各々その職を修めよ」と仰せられた。ひそかにその奸謀を折られる御心づかいは至れり尽くせりである。二、三の臣はこの至意を体せず、あるいは専ら宏を攻め、あるいは璁・萼をも兼ねて攻めるが、宏は去らせられても璁・萼は去らせられぬことを知らない。君子は進み難く退き易いが、小人はそうではない。宏は人の言を恤み廉恥を顧みるのでなお君子と望めるが、璁・萼は小人の最たるもので何を憚ろう。かりにその計が行われれば奸邪の勢はいよいよ増し、善類の中傷は已むことなく、天下の事は大いに慮るべきことになる、と。
  • 当時、鄭洛書・張録もこの三人のことを論じたが、一貫の言がとりわけ切であった。詔は所司に下された。璁・萼らは含んで已まず、ついに開州判官に謫され、そこで卒した。

附伝: 鄭洛書

  • 鄭洛書は字を啟範といい、莆田の人。弱冠で進士に登り上海知縣となって善政があった。嘉靖四年(1525年)召されて御史を拝した。
  • 張璁・桂萼が陳九川の事で費宏を訐したとき、洛書は同官の鄭氣とともに述べた。九川の事は、璁・萼が謀に与ったと人は言い、既に公論に罪を得ている。宏の取ると与うるの際もまた明らかでない。そもそも朝廷には紀綱があり、大臣は進退を重んじる。宏も璁・萼もともに去らせぬわけにはいかぬ。宏が去らねば禄を持し位を保つとの誚りがあり、璁・萼が去らねば田を蹊って牛を奪う(罰が過ぎる)との嫌を冒すことになる、と。詔は洛書の妄言を責めた。
  • 帝が尚書の趙鑑・席書に詩翰を賜った。洛書は述べた。陛下が大臣を眷み礼されるのは虞廷の賡歌の風である。願わくはこの心を推して旧きを念い、致仕した大臣の劉健・謝遷・林俊・孫交らに特に宸章を降して時政を諮り訪ねられれば、聖徳はいよいよ宏い。またこの心を推して過を赦し、遷謫された豐熈・劉濟・余寛・王元正らに特に仁恩を垂れて量って牽き復されれば、聖度はいよいよ広い、と。報聞にとどまった。
  • 李福達の獄が起こり、帝が自ら鞫こうとした。洛書は、陛下が独断の威を操られ法官がことごとく罪を得るのでは、張釈之・于定国のような者がいても人主の前で抗い弁ずることができません、どうして刑罰を中らしめられましょう、と述べた。帝は怒って罪しようとしたが、楊一清が力めて解いてやめになった。
  • まもなく南畿の学政を視るために出たが、道中で喪を聞いて帰った。十二年(1533年)京察の事が終わり、さらに科道官に互いに糾させたところ、洛書は弾劾されて落職した。給事中の饒秀は御史に弾劾されて憤りを泄らすところがなく、さらに洛書および王重賢ら九人を貪汚闒茸と弾劾した。重賢らはみな降黜され、時論は駭いた。洛書は家に居ること二年余で卒した。年三十九。子の開は上海に往って身を寄せ、上海の人が田百畝を治めてその資とし、年に一度至ってその収入を収めて帰った。

附伝: 張録

  • 張録は字を宗制といい、城武の人。正徳六年(1511年)の進士で太常博士を授けられ、御史に擢かれた。嘉靖の初め、闕に伏して大礼を争い下獄・廷杖された。畿輔を按じて宣府の諸将の失事を弾劾し、みな罪に伏した。
  • 西域の魯迷が獅子・西牛の方物を貢し、貢した玉石は費用二万三千余金にのぼり、往来に七年かかったと言って、中国の重い賞を邀えた。録は述べた。明王は珍しい物を貴ばない。今、二頭の獅子は日に各々羊一頭を飼うので、年に七百余頭の羊を用いることになる。牛は本来芻や豆を食うのに今は果餌を食っており、人の食を食っていることになる。その献を返しその人を帰し、賞を薄くして希望の心を阻まれたい、と。帝は用いることができなかった。
  • 張璁が兵部侍郎に擢かれたとき、録は諸御史とともに争ったが聴かれなかった。璁と桂萼がしきりに費宏を攻めたとき、録は、今は水旱が相次ぎ変異が迭々に出て、まさに臣工が修省すべき時である、諸人は国の股肱でありながらかく互いに傾け排し合う、災変を弭めようとしても難しかろう、と述べ、三人を並べ黜けて天譴を回らすよう乞うた。帝は璁・萼を戒め諭した。
  • のちに璁が侍郎として台の事を総べると前の憾みを晴らし、録は憲体に諳んじないと言って罷め帰らせた。家に居ること二十年で卒した。