明史卷二百四 列傳第九十一 丁汝䕫
字は大章、霑化の人である丁汝䕫。正徳十六年の進士で庶吉士に改められ、大礼を争って杖を受けた。甘肅・保定・應天・河南の巡撫や吏部侍郎を歴任し、嘉靖二十八年に兵部尚書となって團營を督した。翌年のアルタンの大挙侵入(庚戌の変)では、京師の防備を建言したものの、禁軍は空数と老弱ばかりで武備も整わず、偵察も功を奏さず、嚴嵩に「寇は満腹すれば去る」と諭されて戦いを主張できなかった。寇が退くと「守備を設けなかった」罪で市に斬られ首を梟された。刑に臨んで嚴嵩に売られたことを悔いたという。隆慶の初め、復官した。
年表(4件)
- 正徳十六年1521年進士となり庶吉士に改められ、嘉靖初めに大礼を争って杖を受ける
- 嘉靖二十八年1549年十月、兵部尚書を拝して團營を督し、辺務十事を条上して允可される
- 嘉靖二十九年1550年八月、アルタンが宣府を犯し、東へ転じて古北口から侵入、京師は戒厳となる
- 嘉靖二十九年1550年寇が都城に迫り、畿甸が大いに震えるが、諸軍は一矢も放てなかった
兵部尚書として庚戌の変に当たる
- 丁汝䕫、字は大章、霑化の人。正徳十六年(1521年)の進士で庶吉士に改められ、嘉靖の初めに禮部主事に任じられ、大礼を争って杖を受け、吏部に移された。累進して山西左布政使、右副都御史に抜擢されて甘肅を巡撫し、保定・應天の巡撫を歴任し、入って左副都御史となったが、事に連坐して湖廣參政に移された。ふたたび元の官で河南を巡撫し、吏部の左侍郎・右侍郎を歴任した。
- 二十八年(1549年)十月、兵部尚書を拝し、あわせて團營を督した。辺務十事を条上し、いずれも允可された。
- このころアルタンは毎年辺を侵し、急報が重なっていた。ところが天子はちょうど西内に斎居して兵事を厭い、大學士の嚴嵩が権を盗み、辺帥はおおむね賄賂で登用され、辺疆の事は大いに壊れていた。
- 翌年(嘉靖二十九年、1550年)八月甲子、アルタンが宣府を犯したが、諸将が防いで入れなかった。丁汝䕫はただちに上言して、寇は宣府で思うようにならなければ必ず東の遼東・薊州へ向かうから、諸将に厳重に備えさせるよう勅されたい、潮河川は陵と京師の門戸だから、遼東の一軍を白馬關へ、保定の一軍を古北口へ調発すべきだと述べ、従われた。
- 寇ははたして東へ引き、大興州に駐まった。古北口から百七十里の地である。大同總兵官の仇鸞はこれを知り、部下を率いて居庸の南に急行した。順天巡撫の王汝孝は薊州に駐まっていたが、間諜の「寇は西北へ向かう」という誤報を信じ、丁汝䕫もこれを信じて、仇鸞を大同へ帰して東へ行かせないよう請うた。興州からの報が届くと、仇鸞に居庸で塁を築かせ、王汝孝には薊州を守らせた。
- まもなく寇は潮河川に沿って南下し、古北口に至って関城に迫った。總兵官の羅希韓・盧鉞は退けられず、王汝孝の軍は大敗した。寇はそこで石匣營から密雲に達し、転じて懷柔を掠め、順義城を囲んだが、保定の兵が城内に駐まっていると聞いて包囲を解いて南下した。通州に至って白河に阻まれて渡れず、河東の孤山に駐まり、分かれて昌平・三河を掠め、諸帝の陵を犯し、殺戮と略奪は数え切れなかった。
- 京師は戒厳となり、各鎮の勤王の兵を召し、文武の大臣それぞれ九人を分遣して京城の九門を守らせ、定西侯の蔣𫝊と兵部侍郎の王邦瑞にこれを総督させた。また錦衣都督の陸炳、禮部侍郎の王用賔、および給事中・御史各四人に皇城の四門を巡視させた。詔によって、大小の文臣で兵を知る者は丁汝䕫が任用してよいとされた。
京師防衛の破綻
- 丁汝䕫は八事を条上し、正兵四営を城外の四隅に、竒兵九営を九門外の近郊に配し、正兵の営は各一万、竒兵の営は各六千とすること、急ぎ大臣二人を遣わして通州・涿州を経略させること、罪を得て廃された諸将を釈放して功を立てて罪を贖わせることを請うた。帝はすべて従った。
- しかし当時、帳簿の数字はみな空数で、禁軍はわずか四、五万、その半ばは老弱、さらにその半ばは内外の提督大臣の家に使役されて隊に戻っておらず、隊にいる者も涙を流して前へ出ようとしなかった。武庫に甲や武具を求めても、庫を掌る宦官が例の手数料を要求して時どおりに出さない。長らく軍として体をなさなかった。そこで住民や各地から武挙を受けに来ていた諸生を動員して城壁に上らせ、あわせて賞格を大々的に公布した。
- 仇鸞は副將の徐玨、遊撃の張騰らとともに白河の西に、楊守謙は副將の朱楫らとともに東直門外に軍を置いた。諸路の援兵もやや集まってきた。論者はおおむね、城内が手薄で城外には辺兵がいて頼みになるから、京軍は内の変事に備えて移すべきだと言い、「汾䕫」(汝䕫の誤りか)もそう考えて、禁軍を引き抜いて十王府・慶壽寺の前に営を置かせた。
- 当時、営務を掌っていた成國公の朱希忠は兵が少なくて譴責されるのを恐れ、東西から抽出して糊塗しようとしたので、兵は疲れて休めず、不満の声が上がった。しかも誰が調発しているのか分からないので、みな丁汝䕫を罵った。
- 仇鸞の兵は軍紀がなく民間から掠奪したが、帝はちょうど仇鸞を寵愛していて捕らえないよう命じ、丁汝䕫も処断を戒めたので、兵と民の怨みと怒りはいよいよ募った。
- 寇の遊騎が四方に出て、都城から三十里のところまで来た。辛巳に至り、ついに通州から河を渡って西へ進み、先鋒七百騎が安定門外の教練場に駐まった。翌日には本営が都城に迫り、分かれて西山・黄村・沙河・大小の榆河を掠め、畿甸は大いに震えた。
- はじめ寇が通州に迫ったとき、兵部が遣わした偵察の兵は城を出て数里も行かぬうちに、道で負傷者に遭うとすぐ引き返し、でたらめを言って丁汝䕫を欺いた。やがて言が事実と合わないと分かっても丁汝䕫は罪としなかったので、他の兵を募って偵察させてもまた前と同じだった。そのため寇の多寡も遠近もまったく分からなかった。
- 宣府總兵官の趙國忠、參將の趙臣・孫時謙・袁正、遊撃の姚冕、山西遊撃の羅恭らがそれぞれ兵を率いて救援に来て、玉河などに営を置いた。詔によって兵部に諸鎮の兵数を調べさせ、賞を行わせた。
- 勤王の兵は先後して五、六万人、みな変を聞いてすぐ駆けつけたので兵糧を携えていなかった。詔が下って軍を犒う牛と酒を出そうとしても出どころがなく、二、三日たってようやく援軍は数枚の餅を得ただけで、いよいよ飢え疲れて戦に堪えなかった。
- 帝は久しく朝に臨まず、軍事を面と向かって申し上げる機会がなかった。廷臣の多くがこれを言ったが帝は許さず、禮部尚書の徐階が重ねて固く請うてようやく許した。癸未、群臣は明け方に参内し、日が傾くころになってやっと帝は奉天殿に出たが、一言も発せず、ただ徐階に敕諭を奉じさせ、午門で群臣を集めて厳しく責めさせただけだった。
- 帝は文武の臣が任に堪えないことに怒り、とりわけ丁汝䕫に怒った。吏部はそこで楊守禮・劉源清・史道・許論を家から起用するよう請うた。丁汝䕫は落ち着かず、諸将を督して城を出て戦いたいとして、侍郎の謝蘭に部の事を代行させたいと請うたが、帝は責任転嫁を責め、これまでどおり中央に留まるよう命じた。
- 寇は内地を八日にわたって縦横に動いたが、諸軍は一矢も放てなかった。寇はもとより攻城の意図がなく、しかも略奪が望外だったので、輜重を整えて悠々と白羊口へ去った。
- 事態が切迫していたころ、帝は諸将に戦えとしきりに急かした。丁汝䕫が嚴嵩に相談すると、嚴嵩は「塞上の敗北なら隠せもしよう。天子のお膝元で失敗すれば帝が知らないはずはない。誰がその責めを負うのか。寇は満腹すればおのずと去るだけだ」と言った。丁汝䕫はそのため戦いを主張できず、諸将もいよいよ営を閉じたので、寇はこれをよいことにはばかりなく掠奪した。
処刑
- 寇が退くと、丁汝䕫・謝蘭および戸部尚書の李士翺、工部尚書の胡松、侍郎の雒顒・孫禬がみな罪を引いた。李士翺は革職、胡松は停俸、いずれも罪を負ったまま職務に当たらせ、侍郎らはそれぞれ五か月の停俸とし、そのうえで丁汝䕫を獄に下した。
- 帝は大々的に誅罰を行って後を懲らしめようとした。丁汝䕫は窮して嚴嵩に救いを求め、嚴嵩は「私がいる以上、あなたを死なせはしない」と言ったが、帝の怒りがきわめて激しいのを見ると、ついに何も言えなかった。
- 給事中・御史が丁汝䕫に寇を防ぐ策がなかったと弾劾すると、帝は早くに言わなかったことを責めて、それぞれ俸を奪い、獄を早く整えるよう促した。法司の奏が杖刑を緩めたことがあると怒り、都御史の屠僑、刑部侍郎の彭黯、大理卿の沈良才をそれぞれ四十、俸を五等下げた。刑科の張侃らが慣例どおり覆奏すると、それぞれ杖五十を加え、張侃を庶民に落とした。
- 丁汝䕫は「守備を設けなかった」罪に問われ、即日、市で斬られ、首は梟された。妻は三千里の流罪、子は鐡嶺に戍った。丁汝䕫は刑に臨んでようやく嚴嵩に売られたことを悔いた。
- 廷訊のとき、職方郎の王尚學も連坐するはずだったが、丁汝䕫が「罪は尚書にあり、郎中は関わりない」と言ったので、死一等を減じられて戍役となった。市に赴くとき、丁汝䕫は左右に「王郎中は免れたか」と尋ねた。尚學の子の王化がたまたまそばにいて「ご恩によって免れました」と礼を述べた。丁汝䕫は嘆じて「あなたの父は私に速やかに戦えと勧めてくれた。私は政府に誤らされたのだ。あなたの父が免れたなら、私は死んでも恨みはない」と言った。聞く者は涙を流した。隆慶の初め、復官した。
- 丁汝䕫が獄に下されると、あわせて王汝孝・羅希韓・盧鉞も逮捕された。寇がまだ完全に去っておらず、官校が前へ進めなかったので、王汝孝らは寇を白羊口まで追っていて遠く、すぐには到着できないと称した。逮致されて死罪と論じられたが、帝の怒りが次第に解け、王汝孝がまた首級の功を挙げたと報告されたので、いずれも死一等を減じて辺境に戍らせた。