家系と屯田の興行
- 楊守謙、字は允亨、徐州の人。父の楊志學、字は遜夫は𢎞治六年(1493年)の進士で、大同・寧夏を巡撫し、辺の人に慕われた。累進して刑部尚書、卒して諡は康恵。
- 楊守謙は嘉靖八年(1529年)の進士に及第し、屯田主事に任じられ、職方に移り、郎中を歴任して軍事の計画に習熟した。出て陝西副使となり、学政の督察に改まって評判を得た。そのまま參政を拝したが着任前に右僉都御史に抜擢され、山西を巡撫した。
- 上言して、偏頭・老營堡の二所に余った土地が千九百余頃あるので営田を興したいと述べ、あわせて副使の張鎬を提調に推薦し、牛と種は現地で調達するとした。帝は忠と称してただちに允可した。
- まもなく延綏の巡撫に移されたが、張鎬を長く任にとどめてその事業を全うさせるよう請うた。その二年後、営田は大いに興り、秋の収穫は帑銀十万に相当する見込みとなり、辺関の穀価は五分の一下がった。楊守謙は張鎬を大用すべきだと推薦し、あわせて延綏・安定などの辺でも同じようにできると述べた。戸部が九辺に広めるよう請い、帝は喜んで急ぎ実行を命じ、楊守謙と張鎬の功を記録した。楊守謙がまだ延綏を去らぬうちに、張鎬はすでに寧夏の巡撫となっていた。
賞格の改定と保定巡撫
- 楊守謙は延綏に着くと述べた。軍士を励ますには重賞が肝要である。いまは一級を斬った者は一階を昇進させ、望まぬ者には白銀三十両を与えると定めているが、賞はすでに薄いうえ、文書の照会と審査に何年もかかるので、士気が奮わない。近ごろ宣大の事態が切迫したときは賞格をやや加えたが、その額を倍にし、鎮巡の官が確認すればただちに支給するようにしていただきたい。昇級や廕の世襲は官のある者にこそ利であって、貧しい兵卒はただ賞を待ち望むだけである、と。兵部はもっともだとして、一級を斬った者には五十両を与えることを定め、令とした。
- 以前の山西の辺の修築の功で俸を一級増され、金と絹をさらに賜った。新設の遊兵の月餉の支給、倉の備蓄を出して飢えた兵に貸すことを請い、いずれも許された。
庚戌の変と処刑
- 二十九年(1550年)、副都御史に進んで保定を巡撫し、あわせて紫荊の諸関を督した。鎮を去る日には城じゅうが号泣し、数百里の外まで見送る者があった。
- まもなくアルタンが侵入すると、楊守謙は軍を率いて昼夜兼行で救援に入った。帝はその到着を聞いて大いに喜び、崇文門外に営を置かせた。副總兵の朱楫、參將の祝福・馮登もそれぞれ兵を率いて到着し、人心はやや落ち着いた。
- 寇の遊騎が散って枯柳の諸村を掠め、京城から二十里のところまで来ると、楊守謙と朱楫らの兵は東直門外に営を移した。詔によって仇鸞とともに京城および各路の援兵を調度し、機に応じて戦い守ることとされた。
- 寇が都城に迫り、諸将の高秉元・徐鏞らが防いだが退けられなかった。帝は仇鸞を大將軍に任じ、楊守謙を兵部右侍郎に進めて内外の諸軍事の提督を協同させた。
- 仇鸞はこのとき孤山から戻って東直門に至り、形勢をうかがっては死人の首六級を斬って功として報告した。楊守謙は孤軍でアルタンの営に迫って陣を敷いたが、後続がないので戦えなかった。帝はこれを聞いて不快とした。しかも尚書の丁汝䕫は軍を失うことを恐れて軽々しく戦うなと戒めていた。諸将は城から遠く離れており、楊守謙が戦わないのを見て自分たちも塁を固め、そのたびに丁汝䕫と楊守謙を口実にした。それが宮中に伝わり、帝はいよいよ怒った。
- はじめ寇が安定門に至ったとき、詔で楊守謙と朱楫らに合撃を命じたが、誰もあえて前へ出なかった。楊守謙もまた兵部の檄がないとしてゆだね、ただ警戒と防備を申し渡すだけだった。寇はついに城外の家屋を焼き、城の西北隅は火光が天を照らした。宦官の庭宅がそこにあり、彼らは帝の前を取り囲んで泣き、将帥が文臣に抑えられているから寇がここまで来たのだと言った。帝は怒って「楊守謙は兵を擁して身を全うしている。朕がみずから旨を下して戦いを促したのに、どうして兵部の檄を口実にできるのか」と言った。
- 寇が退くと、楊守謙は丁汝䕫とともに捕らえられて廷鞫され、軍機を誤った罪に問われて、即日、市で処刑された。
- 楊守謙は刑に臨んで慨然として言った。臣は勤王してかえって罪を得た。讒賊の口がまことに聖聰を覆っている。皇天后土は臣のこの心を知っている。死んでも何の恨みがあろうか、と。辺境の吏士で楊守謙の死を知った者は涙を流さぬ者がなかった。
- 楊守謙は坦率で腹に隔てがなく、部下を恩をもって遇し、官にあって廉潔で、開府の位に至っても寒士のように質素だった。ただ性格が慎重で腰が重く、戦いを勧める客に「周亞夫はどういう人物だったか」と答えた。客が「あなたの誤りです。今日、どうして漢の法に比べられましょう」と言ったが、楊守謙は容れず、ついに罪を得た。隆慶の初め、兵部尚書を贈られ、諡は恪愍。