明史卷二百四 列傳第九十一 曽銑

字は子重、江都の人である曾銑。諸生のころから才を自負し、嘉靖八年の進士となった。遼東を巡按して遼陽・廣寧・撫順の兵変の首悪を一挙に捕らえて誅し、辺城の綱紀を正した。山東・山西の巡撫を経て陝西三辺の軍務を總督し、寧塞營から侵入した寇を撃退して河套の敵を北へ退けた。さらに精鋭六万でその巣を直撃するという河套回復の議を上疏し、帝も当初は壮としたが、夏言を倒そうとする嚴嵩と、かつて弾劾された仇鸞の誣告により、軍餉横領と交結の罪に当てられて斬られた。胆略と廉潔で知られ、隆慶の初めに兵部尚書を贈られ、諡は襄愍。

年表(2件)
  • 嘉靖八年1529年進士となり長樂知縣に任じられ、のち御史として遼東を巡按する
  • 嘉靖二十五年1546年夏、兵部侍郎のまま陝西三辺の軍務を総督し、寧塞營から侵入した寇を退ける

遼東の兵変の処断

  • 曾銑、字は子重、江都の人。諸生のころからその才を自負していた。嘉靖八年(1529年)に進士となり、長樂知縣に任じられ、召されて御史となり、遼東を巡按した。
  • 遼陽で兵変が起こり、都御史の吕經が捕らえられて辱められた。曾銑はそのとき金州・復州を按じており、急ぎ副總兵の李鑑に檄を飛ばして、吕經の苛酷な措置を取りやめさせ、それが乱軍を招いたとして吕經の赦免を乞うた。吕經は罷められて廣寧へ移されたが、凶暴な兵卒の于蠻兒らがまた吕經を捕らえて辱め、その月には撫順の兵卒も指揮の劉雄父子を縛った。
  • 朝廷が侍郎の林庭㭿を遣わして調査させることになると、乱れた兵卒は恐れた。遼陽で首唱した趙劓兒はひそかに廣寧へ行き、于蠻兒と共謀して、鎮城の官が上表するために衆を集めるときに乱を起こそうとしたが、總兵官の劉淮に気づかれて実行できなかった。さらに死罪の囚人と結び、林庭㭿が着いたら城門を閉じて変を起こそうとした。しかし曾銑はすでに二城および撫順の悪をなした者の姓名を探り出しており、ひそかに諸将に授けていたので、趙劓兒ら数十人が同じ日に捕らえられた。
  • 曾銑は上言して、先年の甘肅・大同の軍変の処置が軽すぎたため、小人どもが「命を辱め臣が主帥を殺しても罪はこの程度だ」と思い、相次いで乱を起こしている、いま首悪は急ぎ誅すべきだと述べた。そこで林庭㭿を召還し、曾銑に取り調べを命じ、首悪をことごとく斬って辺城に首を掛けた。遼東全体が大いに安定した。
  • 曾銑は大理寺丞に抜擢され、右僉都御史に遷って山東を巡撫した。アルタンがたびたび内地に侵入したので、曾銑は臨清の外城を築くよう請い、工事が終わると副都御史に進んだ。三年いて山西の巡撫に改まり、その在任中、寇は辺を犯さなかった。朝廷はこれを功として兵部侍郎に進め、巡撫は元のままとした。

陝西三辺総督としての戦功

  • 二十五年(1546年)夏、元の官のまま陝西三辺の軍務を総督した。寇が十万余騎で寧塞營から侵入し、延安・慶陽の境を大いに掠めた。曾銑は数千の兵を率いて塞門に駐まり、前參將の李珍を遣わして馬梁山の陰にある寇の巣を衝かせ、百余級を斬った。寇はこれを聞いてようやく逃げた。勝報が奏せられ、銀と絹を賜った。
  • その後も寇はたびたび侵入し、遊撃の高極が戦死し、副總兵の蕭漢が敗れた。曾銑は諸将の罪を上疏し、律のとおりに処断した。
  • 当時、河套の寇が塞の近くで牧をし、少数の騎兵が行き来していたので、住民は薪も採れなかった。曾銑はちょうど塞を築いていて妨げられるのを憂え、精鋭を選んで撃ったので、寇はやや北へ退いた。ときおり軽騎で入って掠めたが、曾銑はまた諸軍を率いて追い、遠くへ移らせた。參將の李珍と韓欽の功が最も多かった。詔によって曾銑の俸を一級増し、銀と絹をさらに賜った。

河套回復の議

  • 曾銑はもともと功名を好み、また帝の知遇に感じて、報いようと考えていた。寇が河套に居座って長く中国の患いとなっていることを思い、上疏して述べた。
  • 賊が河套に拠って辺境を侵し騒がすこと百年近い。孝宗は回復しようとしてできず、武宗は征討しようとして果たさなかった。そのため濟農がこれを巣穴とし、套を出れば宣大・三関を犯して畿輔を震わせ、套に入れば延安・寧夏・甘州・固原を犯して関中を騒がす。深山大川の地の利は敵にあってわれにない。それなのに封疆の臣で回復を陛下に申し上げる者がいなかった。軍事は重大な務めで、少しでも失敗すれば讒言が続き、鼎鑊や刀鋸が前後に立ちはだかるからである。臣とて兵は凶器で戦は危ういことを知らぬのではないが、戈を枕にし馬に汗して歯噛みし心を痛めてきて久しい。
  • ひそかに考えるに、秋深く馬が肥え弓矢が強いときは、彼らが集まって攻め、こちらは散じて守るので彼らが勝つ。冬が深く水が枯れ、馬に飼葉がなく、春は寒く陰雨で地に乾いた土がないときは、彼らの勢いは次第に弱まり、こちらがその疲弊に乗ずれば中国が勝つ。
  • 臣は精鋭六万に山東の鎗手二千を加え、春夏の交わりごとに五十日分の兵糧を携え、水陸から進んでその巣を直撃したい。材官が矢を放ち、砲火が雷のように激すれば、寇は支えきれない。これこそ一たび労して永く安んずる策であり、万世の社稷が頼るところである。
  • そして八箇条の議を条挙して進めた。
  • このとき曾銑は延綏・寧夏の巡撫たちとともに、西は定邊營から東は黄甫川まで千五百里に辺牆を築いて寇を防ごうとし、帑金数十万を請い、三年で完成する見込みを立てた。上疏はともに兵部に下されたが、部の臣は難色を示し、諸鎮の文武の将吏に協議させるよう請うた。
  • 詔が返って言った。賊が套に拠って中国の患いとなって久しい。朕は朝夕これを念じてきたが、辺臣に憂いを分かつ者がなかった。いま曾銑が回復の議を唱えた。まことに壮とすべきである。曾銑と諸鎮の臣に心を尽くして方略を上申させ、辺の修築費として二十万を与えよ、と。
  • 曾銑はいよいよ意気込んだが、諸巡撫の延綏の張問行、陝西の謝蘭、寧夏の王邦瑞、および巡按御史の盛唐は困難だとして、久しく合同の奏上をしなかった。曾銑は怒って帝に上奏し、帝は諸巡撫を責めた。たまたま張問行はすでに罷められ、楊守謙が代わって、その意向は曾銑と同じだった。曾銑はそこで諸臣を合わせて方略十八事を条上し、さらに営陣の八図を献じた。いずれも手厚い詔旨が下され、廷議に付された。廷臣は帝の意が曾銑に傾いているのを見て、そろって曾銑の言うとおりだと述べた。

厳嵩・仇鸞の讒言による処刑

  • 帝は突然、手詔を出して輔臣に諭した。いま套の賊を逐う出兵に、はたして名分はあるのか。兵と食ははたして余裕があるのか。成功は必ず得られるのか。曾銑一人はどうということもないが、生民の塗炭はどうするのか、と。
  • はじめ曾銑が建議したとき、輔臣の夏言はこれに頼って大功を成そうとして強く後押ししていたが、ここに至って大いに驚き、帝みずから裁断されるよう請うた。帝は手詔を刻して議に加わった諸臣にあまねく配らせた。
  • そのころ嚴嵩はちょうど夏言と隙があり、これに乗じて夏言を倒そうとして、套は絶対に回復できないと極言し、ひそかに夏言を誹り、わざと罪を引いて罷免を乞うことで帝の怒りを煽った。まもなく公然と夏言を攻め、以前に曾銑を褒める旨を擬したときは臣は一切あずかり知らなかったと述べた。兵部尚書の王以旂が廷臣を集めて再び奏したときには、前の説をことごとく覆して、套は回復できないと述べた。
  • 帝はそこで官を遣わして曾銑を逮捕し、王以旂を代わりに総督とした。また科道の官が言上しなかったことを責め、みな廷杖のうえ俸を四か月停めた。
  • 帝は曾銑に怒ってはいたが、殺す意図はなかった。咸寧侯の仇鸞は甘肅を鎮していたとき、妨害したとして曾銑に弾劾され逮捕・訊問されていた。嚴嵩はもとより仇鸞と親しく、曾銑と親しい同郷の蘇綱という者が夏言の後妻の父であることを知っていた。蘇綱は曾銑と夏言のあいだで言葉を取り次いだことがあった。そこで嚴嵩は仇鸞のために獄中で疏を草し、曾銑が敗戦を隠して奏せず、軍餉を巨万も横領し、子の曾淳を遣わして親しい蘇綱に頼んで要路に賄賂を贈らせた、と誣告した。その言葉には何の証拠もなかったが、帝はその説を深く信じ、ただちに曾淳と蘇綱を詔獄に下した。
  • 給事中の齊譽らは、帝が曾銑に激怒しているのを見て、早く刑を正すよう請うた。帝は齊譽が奸に与して事を避けたと責め、位を下げて外任に移した。
  • 曾銑が到着すると、法司は辺帥が城砦を失陥させた場合の律に擬したが、帝はあくまで正条に依らせようとし、曾銑を「近侍と交結した」律に当てて斬とし、妻子は二千里の流罪、即日刑を執行した。曾銑が死んだのち、夏言もまた斬に処せられ、仇鸞は獄を出た。

人となりと連座した人々

  • 曾銑は胆略があり用兵に長けていた。大晦日の夜、突然に諸将へ出動を命じたことがあった。当時、塞上に警報はなく、諸将はちょうど酒宴の最中で行きたがらず、鈴卒に賄賂を贈って曾銑の妾を通じて延期を求めた。曾銑は鈴卒を斬ってさらしたので、諸将はやむなく夜半に甲を着けて出動し、はたして寇に遭ってこれを撃ち破った。翌日、賀を述べたあとで理由を尋ねると、曾銑は笑って「烏や鵲が時ならぬときに騒ぐのを見て分かっただけだ」と言った。みな大いに感服した。
  • 曾銑は廉潔で、死んだとき家に余分の財はなかった。隆慶の初め、給事中の辛自修と御史の王好問が、曾銑は功を立てることを志しながら重い刑罰に遭い、知る者も知らぬ者も今なお痛み悼んでいると訴えた。詔によって兵部尚書を贈られ、諡は襄愍。萬厯年間、御史の周磐の請いによって陝西に祠が建てられた。
  • 李珍という者は、もと事に連坐して官を失っていたが、曾銑が徒刑の者のなかから取り立て、戦功を積んで參將に至った。曾銑が誣告されると、詔によって給事中の申价らが調査に遣わされ、あわせて李珍と指揮の田世威・郭震を曾銑の爪牙として弾劾し、詔獄に下した。さらに巡撫の謝蘭・張問行、御史の盛唐、副總兵の李琦らにも及び、みな斥けられ罰せられた。
  • 曾淳・蘇綱には贓物を弁償させ、戦死した軍人および被災した住民に給付させた。曾銑がかつて府衛に銀三万両を檄して車仗を作らせた分も曾淳に償わせた。しかも李珍を酷刑で拷問し、餉を横領して賄賂を贈った事実を認めさせようとし、李珍は死にかけたが、ついに認めなかった。曾淳はそのおかげで免れたが、李珍はついに死罪となり、田世威・郭震は流されて戍った。
  • その後もアルタンは毎年侵入したが、帝はついに悟らず、いつも「これは曾銑が辺境で事を起こそうとしたので、その報復をしているだけだ」と言った。