明史卷二百四 列傳第九十一 孫繼魯

清廉と剛直

  • 孫繼魯、字は道甫、雲南右衛の人。嘉靖二年(1523年)の進士で、灃州知州に任じられたが、事に連坐して國子助教に改められた。戸部郎中を歴任して通州倉を監し、衛輝・淮安二府の知府を歴任した。
  • 織造の宦官が淮を通ったとき、孫繼魯はこれと衝突し、誣告されて京に逮致された。大學士の夏言が救って免れたが、孫繼魯が礼を言わなかったので夏言は不快とし、黎平に改補された。
  • 湖廣提學副使に抜擢され、山西參政に進んだ。しばしば宗藩を取り締まったので、按察使に遷るとき宗藩百余人が馬を取り囲み、その□を開けさせたが、粗末な衣のほかに余分の物はなかった。そこで酒を積んで来て非礼を詫びた。
  • 陝西右布政使に遷った。

山西内辺の兵の撤収に反対して獄死

  • 二十六年(1547年)、右副都御史に抜擢され、楊守謙に代わって山西を巡撫した。孫繼魯は耿介で、赴くところ清廉な節操で知られたが、剛を好み気を張るところがあった。
  • 總督都御史の翁萬達が、山西の内辺の兵を撤収して大同の外辺の防衛に集中すべきだと議し、帝が允可した。孫繼魯は抗議の上章をして争った。
  • 紫荊・居庸・山海の諸関は東に大海を枕にし、雁門・寧武・偏頭の諸関は西に黄河に拠り、天が設けた二重の険で国家を守っている。どうして曠野に兵を集め、幾重もの門を開け放って敵を招き入れてよいのか。紫荊の諸関が京師を守るのと、雁門の諸関が晋全体の屏となるのとは同じことである。いま論者は紫荊を撤して宣府に集中させはしないのに、どうして雁門だけ撤して大同に集中させられようか。
  • まして偏頭・寧武・雁門から東は平刑關まで、これが山西の長辺である。右衛の雙溝墩から東陽河の鎮口臺まで、これが大同の長辺である。丫角山から雙溝まで百四十里が大同の緊辺、丫角山から老牛灣まで百四十里が山西の緊辺である。長辺で論ずれば大同が急で山西はやや緩やかだが、緊辺で論ずれば双方とも最も急である。これらはみな河套に間近い。門扉に喩えれば、山西が左を守り大同が右を守る形で、山西が全力で左を守ってもなお支えきれないのに、どうして力を分けて大同の右まで守れようか。
  • 近年、寇が山西の内郡をあえて犯さないのは、三関の備えが厳重だからである。三関の将士を堡や戍所から遠く離しておいて侵犯するなというのは無理である。全軍が外にあり強い寇が内へ侵せば、紫荊・倒馬の諸関もむなしく守るだけになるではないか。
  • 翁萬達はこれを聞いて不快とし、上疏して、兵を増して擺邊とするのは近年に始まったことで定数の守辺兵とは違うのに、孫繼魯は危言をもって脅している、さらに私信をよこして「先年に雲中の議を立てたときは宰執がほとんど無事では済まなかった、近年に各路の兵を撤収したときも督撫はすでに罪を得た」と言うなど、その罵倒ぶりはこのとおりである、いま防秋が迫っているから孫繼魯を別に転任させてほしい、さもなければ早く臣を罷めさせて辺事を誤らせないでほしい、と述べた。
  • 兵部は孫繼魯の言を是としたが、帝は従わず廷議に下した。廷臣は翁萬達の言のとおりにするよう請うた。帝はちょうど翁萬達を頼みにしていたので、孫繼魯が私信を言い立てて過去の事を持ち出し君上を論評したことに怒り、夏言もまた孫繼魯を憎んで庇わなかった。そこで逮捕して詔獄に下し、項に疽ができて獄中で衰弱死した。
  • 孫繼魯が巡撫であったのはわずか四か月で、山西の人は前任地での政治ぶりを知っていて何かを施してくれると期待していたのに、たちまち罪なくして死んだので、みな痛惜した。上書して冤を訴えた宗藩の者がいたが、それは以前に馬を取り囲んで□の中を見た者たちであった。
  • 穆宗が即位すると兵部左侍郎を贈られ、祭葬を賜り、一子に廕を与えられ、諡は清愍。