明史卷二百三 列傳第九十一 鄭岳

篇首の立伝者一覧

  • 鄭岳
  • 劉玉(子・慤)
  • 王元錫(邢寰)
  • 寇天敘
  • 唐胄
  • 潘珍(族子・旦、余光)
  • 李中(李楷)
  • 歐陽鐸
  • 陶諧(孫・大順、大臨)
  • 潘塤(吕經)
  • 歐陽重
  • 朱裳
  • 陳察
  • 孫懋
  • 王儀(子・緘、王學夔)
  • 曽鈞

出自と初任

  • 鄭岳、字は汝華、莆田の人。𢎞治六年(1493年)の進士で、戸部主事に任じられ、のち刑部主事に移った。
  • 董天錫が錦衣千戸の張福とともに囚人の処断にあたり、福が罪に問われて天錫が昇進した一件で、鄭岳はその体例の誤りを論じた。糾劾は鎮守の宦官の職掌ではないのに董讓がこれを行い、太常寺は本来礼部の所属なのに崔志端が専断していると指摘し、内外がこれに倣えば歯止めがきかなくなると述べた。詔旨に触れて投獄され、尚書の周經、侍郎の許進らが救おうとしたが聴かれず、贖罪の杖刑を受けて復職した。
  • まもなく員外郎に進む。許進が大同で軍を督したとき、その剛直を憎んだ帝の側近が交代を議し、罷職中の官の趙㫤を起用しようとした。鄭岳は、許進を代えてはならない、趙㫤を用いてはならない、京軍を出してはならないと述べ、朝廷の議論もこれを是とした。

地方官としての治績

  • 湖廣僉事に遷り、宗藩が侵した土地を民に返した。施州で夷民が互いに報復殺害を重ね、担当役所が反乱と報告した件では、首謀者だけを捕らえて残りはすべて釈放した。
  • 荊岳が飢饉になると、富民に穀物を出させ、河泊の禁を緩め、属県が遠方の衛所へ糧を運ぶ際に二石で一石が届く実情に対し、その代価を衛に給して穀物は手元に留め振給に備えた。これで民は救われた。
  • 正徳の初め、廣西副使に抜擢。土官の岑猛が移封されるべきところ、田州に拠って動かなかった。鄭岳は近い土地への変更を奏請すると約束し、猛はみずから務めを果たすことを願い出た。
  • まもなく廣東に移り、江西按察使に遷り、そのまま左布政使に進んだ。
  • 寧王宸濠が民田を億万の規模で奪い、民が砦を築いて自衛すると、宸濠は兵を差し向けようとした。鄭岳は不可として押しとどめた。
  • たまたま提學副使の李夢陽と巡按御史の江萬實が互いに告発し合い、鄭岳が檄を受けて審理した。夢陽は鄭岳の腹心の吏を捕らえ、鄭岳の子の沄が賄賂を受けたと言わせ、それで鄭岳を脅そうとした。宸濠は夢陽に加勢してこの件を奏聞し、沄を捕らえて拷問した。巡撫の任漢は思い惑って決しかね、帝は大理卿の燕忠を遣わし給事中の黎奭とともに審問させた。燕忠らは、鄭岳の子には私曲の形跡があるが、夢陽も巡撫・巡按を脅迫しており、ともに退けるべきだと奏した。鄭岳はこうして官を奪われ庶民とされた。

再起と晩年

  • 宸濠が敗れると内外から推薦が相次ぎ、四川布政使に起用されたが、喪に服して赴任しなかった。
  • 世宗の初め、右副都御史に抜擢されて江西を巡撫したが、わずか二か月で召されて大理卿となった。
  • 嘉靖元年(1522年)冬、内臣に罪があれば部・院に審理させ、宮中の裁断で決すべきでないと上言したが、容れられなかった。
  • 帝がしばしば不例だったとき、聖祖の「欲を寡くし動いて治める」の訓を守り、宮中の起居に節度を設け、時を定めて御し、退朝後は文華殿で章奏を裁決し、日暮れに還宮して寿命の源を養うよう請うた。奏は聞き置かれた。
  • 甘肅の乱卒の事件を按じるため出向き、總兵官の李隆らはみな罪に服した。
  • 帰朝後、災異に託して刑獄の不公平をめぐる八箇条を陳べ、まもなく兵部右侍郎に遷った。
  • 当時、大礼の議が定まっていなかった。鄭岳は、両考(二人の父)を並べるのが憚られるなら、孝宗を廟号だけで称し「伯考」とは称さず、わずかに正統を保つべきだと述べた。大學士の石珤がこれに従うよう請うたが、帝は珤を厳しく責め、鄭岳の俸二か月分を奪った。
  • 左侍郎に転じ、山海関の税の廃止を請うたが許されなかった。宦官の崔文が兄の子を副將に用いようとしたのを、不可として押しとどめた。寧夏總兵官の仲勛が京師で賄賂を使った件で、御史の聶豹が風聞によって鄭岳を弾劾した。鄭岳はみずから弁明したうえで退職を願い出て帰郷し、十五年(1536年)に卒した。