明史卷二百三 列傳第九十一 劉玉

家系(祖父・廣衡と父・喬)

  • 劉玉、字は咸栗、萬安の人。
  • 祖父の劉廣衡は永樂末の進士。正統年間に刑部郎中として浙江の荒政の立て直しに出向き、数百万の穀物を積み、陂塘の整備を督して旱魃と水害に備えた。
  • 景泰の初め、左副都御史を歴任して陝西を鎮守し、災害の被害があれば検分の報告を待たずただちに賦を免じ、担当役所が再検査にかこつけて内々に割り当てを課すことのないようにと請い、聴き入れられた。
  • 帰任して都察院の事を治め、福建・浙江に盗賊が起こると兵を督して捕らえるよう命じられ、官臺山に寿寧県を新設して盗賊の巣を掃うことを議した。處州の賊を討ち平らげ、のちふたたび遼東を巡撫した。官にあって廉潔と節操で称され、刑部尚書で終わった。
  • 父の劉喬は成化初めの進士で、累進して湖廣左布政使。

言官としての抗論

  • 劉玉は𢎞治九年(1496年)の進士に及第し、輝縣知縣に任じられた。穀物を出して飢えを振救し、実体のない税の免除を奏請し、生業に復した者が千家に及んだ。御史に抜擢された。
  • はじめ孫伯堅・金琦・王寧がいずれも伝奉(正規の銓選を経ない任命)で官を得、さらに指揮の胡震を都指揮として通州を分守させた。劉玉は抗議の上疏を行い、伝奉が絶えぬうえに内批が続いて聖徳を傷つけていると述べ、いずれも撤回するよう乞うたが、容れられなかった。
  • 武宗が即位してわずか四か月で災異が相次ぐと、劉玉は修省すべき六箇条を陳べた。京畿を巡按に出たとき、宦官の呉忠が后妃選定の命を受けて貪虐をほしいままにしたので、劉玉が奏したが不問に付された。
  • 劉健・謝遷が罷免されると、劉玉は急ぎ上疏し、劉瑾らは佞幸の小臣で、たくみな戯れで陛下の一笑を買っているにすぎない、その讒邪を顧みて輔臣を棄てるのは乱と危難の始まりであると述べた。さらに、白虹が日を貫き、彗星が紫微宮に現れ、天王の位にあたる星が揺れ、民は窮し財は尽きて各地が空虚である、陛下が改めなければ天下は危ういとして、劉瑾らを司法に付し、劉健・謝遷を留めて輔政させるよう乞うた。返答はなかった。
  • 劉玉は病と称して帰郷した。のち劉瑾は劉玉を奸党として掲示し、さらに事を構えて、辺境への穀物納入を三度も罰として科した。最後には詔獄に捕らえ、籍を削って追放した。

劉瑾誅後から晩年

  • 劉瑾が誅されると河南僉事に起用され、福建副使に遷った。いずれも学政を掌った。
  • 正徳十五年(1520年)、累進して南京右僉都御史となり江防を提督した。宸濠が反いて安慶を攻めると、劉玉は水軍を率いて救援に赴いた。事が定まると鄖陽の巡撫に移った。
  • 世宗が即位すると召されて左僉都御史となり、乱を防いだ功を論じられて右副都御史に進んだ。嘉靖元年(1522年)左に改まり、刑部の左侍郎・右侍郎を歴任した。
  • はじめ九卿とともに、興獻帝を「皇」と称すべきでないと争い、帝が獻帝を「考」としようとしたときも廷臣とともに闕下に伏して哭き争った。
  • 六年(1527年)秋、李福達の獄に連坐して籍を削られ、家で卒した。
  • 劉玉の住まいは雨風をしのぐだけのものだった。天文・地理・兵制・刑律のいずれにも著述がある。隆慶の初め、刑部尚書を贈られ、諡は端毅。
  • 子の劉慤は南京工部右侍郎。歴任した官職でもやはり評判があった。