出自と経歴
- 周延は字を南喬といい、吉水の人。嘉靖二年(1523年)の進士で、潛江知縣に任じられ、新會に移された。兵科給事中に抜擢された。
- 当時、新建伯の王守仁の罪を議してその爵を奪おうとしたので、延は抗議の上疏をして訴え、そのために太倉州判官に謫された。南京吏部郎中を歴任し、廣東參政に出た。安南の慰撫と黎寇の征討にいずれもあずかって功があった。三度移って廣東左布政使。右副都御史として應天を巡撫し、海寇の林成の乱を鎮めた。兵部右侍郎に進み両廣の軍務を提督した。刑部左侍郎に召され、南京右都御史、吏部・兵部の二部尚書を歴任した。
辺才の推挙をめぐる紛議
- 嘉靖三十四年(1555年)、召されて左都御史となった。帝は給事中の徐浦の議を用い、廷臣および督撫にそれぞれ辺境の才を挙げさせた。そこで前の侍郎の郭宗臯、都御史の曹邦輔・吳嶽、祭酒の鄒守益、修撰の羅洪先、御史の吳悌・方涯、主事の唐樞、參政の周大禮・曹亨、參議の劉志、知府の黄華が挙中に入った。
- 御史の羅廷唯が反駁して、「浦の疏はもともと辺境の才を言ったのに、今の廷臣は清らかな修養・苦しい節操・実学・美行をもって挙げており、当初の議とかけ離れている。まして縁故で入り込む者もあり、これは明詔にかこつけて僥倖の門を開くものだ」と述べた。帝はその言を容れ、吏部の濫挙を責め、都察院とともに改めて議するよう命じた。延と尚書の吳鵬らは「挙げた者はみな人望があり、公正で私はない」と述べたが、帝はついに納得せず、延らを厳しく責め、挙げられた者はことごとく取り止めとなった。
- 世宗の時、天下の賢士大夫で斥けられた者は多く、この推挙で少しは再登用を期待したが廷唯に阻まれ、以後みな二度と召されることはなかった。
- 延は容貌が厳しく、節を磨いて公に奉じ、権臣が事を執り政が賄賂で決まる中でも染まったことがなかった。しかし台端に居ること七年、諫諍の名はなかった。官にあって卒し、太子太保を贈られ、諡は簡肅。
- 延が卒すると歐陽必進が代わったが、一か月余りで吏部に移り、潘恩が継いだ。
潘恩
- 潘恩は字を子仁といい、上海の人。嘉靖二年(1523年)の進士で、祁州知州に任じられ、繁劇の鈞州に移された。鈞は徽王の封国で宗室・外戚が横暴だったが、恩はこれを取り締まった。
- 南京刑部員外郎に抜擢され、廣西提學僉事に移り按察使の事を代行した。大悪人が靖江王のもとに隠れたが、急に捕らえたので王はやむなく引き渡した。王は恩を恨んで事を誣告したが、調べても事実がなく免れた。
- 累進して山東副使。御史の葉經が試録で旨に忤い、恩もともに詔獄に下され、廣東河源典史に謫された。四度移って再び江西副使となり、浙江左參政に進んだ。海鹽を巡視していたとき倭が急襲して城を幾重にも囲んだが、恩は參將の湯克寛・僉事の姜廷頤とともに力めて防ぎ退けた。
- まもなく浙江左布政使に移り、右副都御史として河南を巡撫した。按察の臣とともに徽王の載埨の貪虐を弾劾し、ついに封国を奪わせた。伊王の典楧が驕り高ぶったので恩は一切これを抑えた。河南の民はもとより藩府に苦しんでいたので、二人の凶暴な王を制した恩の名は大いに知られた。
- 久しくして刑部尚書から左都御史に改められた。子の允端が刑部主事となったとき、吏部尚書の郭朴は恩の門生だったので礼部に移した。給事中の張益が、允端の猟官、恩の溺愛、朴のえこひいきを弾劾し、帝は朴は問わず、允端を南京工部に改め、恩を致仕させた。萬暦の初め、慰問を賜り、卒した。年八十七。太子少保を贈られ、諡は恭定。