出自と地方官歴
- 賈應春は字を東陽といい、真定の人。嘉靖二年(1523年)の進士で、南陽知縣に任じられ、和州知州に移り、中央に入って刑部郎中となった。潞安・開封の二府を知り、陜西副使に移ったが赴任前に河南巡按の陳蕙にその貪濫を弾劾され、山東鹽運同知に謫された。蕙もまた連座して貶された。
- 久しくして漢陽知府から再び陜西副使に移り、右參政に進んだ。寧羌の賊が起こると兵を合わせて討ち平らげ、按察使、左布政使・右布政使に移ったが、いずれも陜西であった。そのまま右副都御史としてその地を巡撫した。
三邊の総督
- 三十二年(1553年)、兵部右侍郎に進み三辺の軍務を総督した。諳達の諸部が毎年辺境を騒がせた。応春は「諸辺は間諜が通じておらず、寇が入るたびにどこへ向かうか読めない。こちらは備えないところがなく、兵は分散して勢いは孤立し、往々にして事を仕損じる。そもそも寇が内地を犯そうとするときは必ず衆を集め武器を整え肉を干し馬を飼い矢を回して旗を祭るから、その兆しは先に露れる。掠奪された我が民も辺に来て報せることがあり、かなり裏づけがとれる。辺臣に厚く官賞を与えて密かに偵察させれば、漫然と分散して守るのに比べて功は十倍百倍になる」と述べ、賞の基準を定めることを請うた。帝はただちに従った。
- その秋、寇が大挙して延綏に入り五千余人を殺し掠めた。応春は諸将を督して迎え撃ち首功二百四十を得て勝報を送ったが、巡按御史の吉澄は敗戦の状を極言した。帝は結局、応春の功を記録して子一人を任官させた。
- 翌年、宣大総督の蘇祐が罷められ、応春が代わった。折しも秋の防備の時期が迫っていたが、応春に代わるはずの江東が着任せず、旧任のままとされた。河套の寇数萬人が寧夏の山の背後に屯し、まず騎兵五百余を送って侵入し掠奪した。総兵官の姜應熊は紅井を守って敵を引きつけ、密かに精兵を出してその陣営に迫り、斬首百四十余級。応春は右都御史に進んだ。
- 一か月余りののち、寇の別部が永昌・西寧に入ったが守将に破られ、番人が鎮羌に入ったが総兵官の王繼祖がこれを撃破し、ともに応春に銀と幣を賜った。久しくして寇五千騎が環慶を犯したが都督の袁正に破られ、莊涼を掠したが守将が迎え撃って百二十人を斬った。再び応春の子一人に官を与えた。
- 鎮にあること数年、辺垣一萬一千八百余丈を築き、花馬池の遊休地二萬頃を軍に与えて屯田開墾させ、辺境の人々はこれを頼りにした。
中央での財政
- 召されて南京戸部尚書、辺垣の功を論じて位を一等進められた。まもなく刑部尚書に召され、戸部に改められた。国用が足りず、応春がこれを述べたので、徴収が七分に達しない者はその担当官の昇進を認めないよう命じられた。漕政が廃れて運送船に未納が多かったのも、応春の言によってその罰を重くした。一年余りで致仕して去り、卒して太子太保を贈られた。