出自と吏部尚書への抜擢
- 李黙は字を時言といい、甌寧の人。正徳十六年(1521年)の進士で、庶吉士に選ばれた。嘉靖の初め、戸部主事に改められ、兵部員外郎に移り、吏部に移されて驗封郎中を歴任した。真人の邵元節が寵愛を得て封誥を請うたが、黙は押しとどめて与えなかった。
- 十一年(1532年)、武會試の同考官となった。兵部で宴が催されたとき、黙は賓客の席に拠って尚書の王憲より上座に着こうとし、憲はその不遜を弾劾して寧國同知に謫した。しばしば移って浙江左布政使、中央に入って太常卿となり南京國子監の事を掌った。博士などの官が科道の選に加われるようになったのは黙が発議したものである。
- 吏部左侍郎・右侍郎を歴任し、夏邦謨に代わって尚書となった。正徳初めの焦芳・張綵ののち、吏部では侍郎から尚書を拝した者はなく、黙は帝の特命によるもので異例の扱いだった。
嚴嵩・趙文華との対立
- 嚴嵩が政を握って人事を専断したが、黙はいつも自分の意見を通したので、嵩は恨みを含んだ。遼東巡撫の会推で布政使の張臬・謝存儒を列して上申すると、帝が嵩に問い、嵩は任に堪えないと述べたので、黙は職を奪われて庶民とされ、萬鏜が代わった。黙が銓衡を掌ったのは僅か七か月であった。
- 翌年、鏜が罷められ、特旨で黙が再び用いられた。西内に入直するよう命じられ、直廬を賜り、苑中で馬に乗ることを許された。ついで太子少保に進み、まもなく翰林學士を兼ねることを命じられた。給事中の梁夢龍が黙のえこひいきを弾劾したが、帝はかえって夢龍を責めた。群吏の大計にあたって黙は門下を戒めて賓客を謝絶し、同じく入直する大臣も私的に会えなかったので、嵩は甚だ恨んだ。
- 趙文華が視察から還ると、黙は気迫で圧倒した。総督の楊宜が罷められ、嵩と文華は胡宗憲を用いようとしたが、黙は王誥を推して代えさせたので、二人の恨みはますます深まった。
- はじめ文華は帝に「残った倭はいくらもない」と述べたが、巡按御史の周如斗が敗戦の状を報告したので、帝は疑ってしばしば嵩を詰問した。文華は自ら言い逃れる策を謀り、帝が密告を喜ぶことに通じていた。折しも黙が選人を試す策問で「漢の武帝・唐の憲宗は英明さによって盛業を興したが、晩年に不適任な者を用いて敗れた」と述べたので、文華は黙の誹謗を奏上し、さらに「残った寇は滅ぼすのに難しくないが、督撫が人を得ないために敗れたのだ。黙は臣がその同郷の張經を弾劾したのを恨み、報復しようと考えている。臣が曹邦輔を論ずると給事中の夏栻・孫濬をけしかけて臣を陥れさせ、今に至って半年、辺境の事は日ごとに悪化している。先日の総督の推挙もまた宗憲を用いず誥を用いた。東南の塗炭はいつ解けるのか、陛下の日夜のご心痛はいつ晴れるのか」と述べた。
獄死と後任
- 帝は大いに怒り、禮部および法司に下して議奏させ、「黙は偏執・独断で大臣の体を失い、引いた漢唐の故事は口にすべきことではない」とした。帝は禮部尚書の王用賓らが庇ったと責めてそれぞれ俸三か月を奪い、黙を詔獄に下した。刑部尚書の何鰲は子が父を罵る律を適用して絞とした。帝は「律に臣が君を罵る条がないのは、必ずそんなことは無いと考えたからだ。今それがあった。等を加えて斬とせよ」と言い、獄に閉じ込めた。黙はついに獄中で病み衰えて死んだ。三十五年(1556年)二月のことである。
- 黙は博学で弁才があり、気概を誇りとした。武試の同考で陸炳を門生に得、炳の権勢が強く推したので、黙は外任の吏から急に顕職に昇った。頼むところがあって嵩に附かず、人事のたびに可否を争って気勢は盛んだった。しかし性質は狭く浅く、好悪で人を上下させ、かなり同郷の旧知に私して恩威で人を従わせたので、士論もあまり味方しなかった。
- 黙が罪を得たのち、後を継いだ吳鵬・歐陽必進は嵩父子の意向をうかがってひたすら従順であり、吏部の権限はすっかり失われた。隆慶年間に黙の官を復して祭葬を与え、萬暦年間に諡「文愍」を賜った。
萬鏜
- 萬鏜は字を仕鳴といい、進賢の人。父の福は金華知府。鏜は𢎞治十八年(1505年)の進士。正徳年間に刑部主事からしばしば移って吏部文選郎中となった。役所が火事となって下獄したが、贖って職に戻った。太常・大理少卿を歴任した。世宗が位を継ぐと、鏜がかつて知縣の劉源清に書を送って宸濠に備えさせたことにより金幣を賜った。ついで順天府尹に移り、累進して右副都御史、兵部侍郎・右都御史を歴任したが、いずれも南京であった。
- 彗星が現れ、詔に応じて八事を陳べた。そのなかで、「人の邪正はかけ離れているのに、外形は紛らわしい。その大略は四つある。人主が下に求めるものは怨みを引き受けること、事に当たること、恭順、無私であるが、邪臣で強情を恣にし改変を好み迎合が巧みで攻撃をほしいままにする者は、その跡がこれに似る。人主が下に憎むものは事を避けること、名を売ること、徒党、過激であるが、正臣で成法を守り公論を思いやり人情を体して君の過ちを正す者は、その跡がこれに似る。見分けが精密でなければ邪正が逆転し国是が乱れる。慎まねばならない」と述べ、また「天下を治めるには実質を貴び文飾を貴ばない。今、陛下は議礼・制度・考文において至って明備であるが、財を理め人を用い民を安んじ武を講ずる道には欠けるところがあるかもしれない。声色や外観の飾りを止め、太平の美観を省いて、もっぱら実用に努められれば、天下を治める道は得られる」と述べ、大礼・大獄で罪を得た諸臣が長く幽閉されているので、量って寛大に登用することを乞うた。
- 帝は大いに怒って退けて庶民とし、吏部に禁錮して用いないよう命じた。家に居ること十年、しばしば推薦されたが取り上げられなかった。同年の合格者である嚴嵩が政を握って引き立てた。
- 湖廣の蜡爾山の蠻が叛くと、鏜を副都御史として状況を見て討伐と慰撫にあたらせた。鏜は土指揮の田應朝の策を入れてその首長を誘い出し、兵を督して破り、善後の七事を条上して帝はいずれも許可した。鏜は召し還された。
- まもなく銅平の首長の龍子賢がまた叛き、御史の繆文龍が鏜の討伐も慰撫もいずれも失敗だったと述べた。詔して撫按の官に調査させ、罪を參將の李經に帰して事は落着した。鏜は兵部侍郎となり、南京の刑部・禮部の二部尚書に移り、召されて刑部を掌り、やがて李黙に代わって吏部尚書となった。
- 鏜は嵩に引き立てられた身なので事ごとに言いなりで、また贈答をかなり通じた。鄖陽を撫治する都御史が欠けたとき、鏜は通政使の趙文華の名を挙げた。給事中の朱伯辰が文華を弾劾すると、文華は「納言の職は先例として外任に推さない。鏜の意図は臣を外に出すことにあり、また親しい伯辰をけしかけて弾劾させ臣を去らせようとしている。しかも鏜は侍郎から起用されたのに、あいまいに二品九年満と奏して太子少保を加えられ、さらに一品を得られないので面では欺き腹では誹り、大臣の礼がない」と上言した。帝は怒り、ついに伯辰ともども退けて庶民とした。久しくして卒した。隆慶の初め、復官して太子太保を贈られた。