出自と吏部尚書まで
- 聞淵は字を靜中といい、鄞の人。𢎞治十八年(1505年)の進士で、はじめ禮部主事に任じられ、のち刑部に改められた。楊一清が吏部に来ると淵を稽勲員外郎に移し、考功郎中を経て文選を掌るようになった。南京右通政に移った。
- 嘉靖の初め、應天府尹に抜擢され、順天府尹に改められた。累進して南京兵部右侍郎、部の事を摂行し、馬永ら十余人を推薦した。刑部右侍郎に召され左侍郎に移り、南京刑部尚書に進み、そのまま吏部に移った。刑部尚書に召され、周用が卒すると代わって吏部尚書となった。
夏言・嚴嵩との軋轢と晩節
- 侍郎の徐階が帝の寵を得ており、前任の尚書たちはおおむね彼に譲っていたが、淵は自分が先輩だからと事を独断した。大學士の夏言が政を握ったが、淵は老臣であって曲げて従うことができなかった。のち言の獄を議するに至り、淵は「言は事を任意に処理し、その振る舞いは君を要するに近い」と述べ、帝が自ら裁決することを請うた。帝は大いに怒って淵を厳しく責めた。
- 嚴嵩が言を殺してからは勢いがますます横暴になり、部の権限は侵されないところがなく、しばしば些細なことで淵の俸を奪った。淵は七十歳になっていたので骸骨を乞うて帰り、家に居ること十四年で卒した。先に太子太保を重ねて加えられており、卒して少保を贈られ、諡は莊簡。
- 淵は官にあって始終節を変えなかったが、晩年に権勢の宰相に抑えられ功名はかなり損なわれた。南京刑部にいたころ、張璁が以前その属官であったとき壁に詩を題したことがあり、淵にそれを石に刻むよう頼んだ。淵は「ここは尚書の堂である。私が相君のゆえに郎官のために石に刻めようか」と言った。