明史卷二百二 列傳第九十 周用

出自と地方官歴

  • 周用は字を行之といい、吳江の人。𢎞治十五年(1502年)の進士で、行人に任じられた。正徳の初め、南京兵科給事中に抜擢された。父の喪に服し、明けて礼科に補された。のち南への転出を乞い、南京兵科に改められた。
  • 佛を迎えること(烏斯蔵からの招請)、および中旨によって尚書・都給事中らの官を移し退けることを諫め、あわせて鎮守江西中官の黎安の罪を問うことを請うた。
  • 廣東參議に出て、番禺の盜賊平定にあずかって功があった。浙江・山東の副使を歴任し、福建按察使に抜擢され、河南右布政使に改められた。監司に代わって南陽の滞留した訴訟を裁き、獄はそのために空になった。

吏部尚書とその後継

  • 嘉靖八年(1529年)、右副都御史に抜擢されて南贛を巡撫し、召されて都察院の事を協理した。吏部左侍郎・右侍郎を歴任したが、廃官の再起用が不当だとして尚書の汪鋐が部下に罪を負わせたため、南京刑部に移された。そのまま右都御史に移り、工部・刑部の二部尚書となった。九廟の火災で自ら陳謝して致仕した。用は端正で気概があり、罷めると内外がみな惜しんだ。
  • しばしば推薦があり、久しくして工部尚書として河道を督することに起用され、数か月で漕運に改められたが着任前に召されて左都御史を拝した。二品で九年を満たして太子少保を加えられた。二十五年(1546年)、唐龍に代わって吏部尚書となり、翌年、官にあって卒した。太子太保を贈られ、諡は恭肅。曾孫の宗建には別に伝がある。
  • 用は都察院を掌ったときは慎んで身を持しただけで、進言して政を助けるところはなかった。その後は宋景・屠僑が継いだが、おおむね廉潔で用と似ていた。景は久しからずして卒し、僑は八年その職にあった。嚴嵩が政権を握った時期にあたり、風紀は振るわず、丁汝夔の獄を議して杖を受けたが去ることができなかった。

宋景

  • 宋景は字を以賢といい、奉新の人。𢎞治十八年(1505年)の進士で、睢州の知州となった。正徳五年(1510年)、中央に入って河南道御史となった。先例では知州から御史に移る者はなく、劉瑾が創めたものだった。瑾が誅されると景は病と称して去った。
  • 嘉靖三年(1524年)、推薦により浙江僉事に補され、山西副使に進んだ。民が飢えて盜賊となり守禦指揮を殺した。景は旗を立てて脅されて従った者を呼び寄せ、賊はみな帰順したので、その首魁を捕らえて斬った。
  • 四度移って山西左布政使、累進して南京の吏部・工部の二部尚書、兵部に改められて機務に参賛し、中央に入って左都御史となり卒した。太子少保・吏部尚書を贈られ、諡は莊靖。

屠僑

  • 屠僑は字を安卿といい、吏部尚書の滽の再従子である。正徳六年(1511年)の進士で、御史に任じられ居庸などの諸関を巡視した。武宗が中官の李嵩らを派遣して虎豹を捕らえさせようとしたのを、僑は力めて不可と述べた。世宗の時に左都御史を歴任して卒し、少保を贈られ、諡は簡肅。