明史卷二百二 列傳第九十 劉訒

出自と経歴

  • 劉訒は鄢陵の人。父の璟は刑部尚書。正徳十二年(1517年)の進士で、寧國推官となり蕪湖県の事を摂行した。武宗の南巡の際、中官が賄賂を求めて得られず、訒を詔獄に繋いだ。世宗が即位して復官した。
  • ついで御史に抜擢され、南京通政參議に移り、南京刑部尚書を歴任し、召されて北の刑部に改められた。

胡纘宗の獄

  • はじめ帝が承天に行幸したとき、河南巡撫の胡纘宗がかつて事件で陽武知縣の王聨を笞打ったことがあった。聨はまもなく巡按御史の陶欽夔に弾劾されて罷められた。聨はもともと凶悪狡猾で、かつて父の良を殴って死罪を論じられ、久しくして良の願いで出獄したが、また殺人に問われた。赦しを求めて得られず、帝が密告を喜ぶことを知ると、纘宗の迎駕の詩にある「穆王八駿」の語を取り上げて誹謗呪詛とし、「纘宗は自ら命じて刊行させたのに従わなかったので、欽夔に頼んで自分を論じ退けさせたのだ」と言い立て、罪を織り上げて死罪に仕立てようとした。
  • 冬至の日を待ち、その子に常朝の官と偽らせて闕門に無断で入り込ませ冤を訴えさせ、気に入らぬ者――副都御史の劉隅、給事中の鮑道明、御史の胡植・馮章・張洽、參議の朱鴻漸、知府の項喬、賈應春ら百十人をことごとく巻き込んだ。
  • 帝は大いに怒り、ただちに官を派遣して纘宗らを捕らえて下獄させ、訒に法司と会同して厳しく訊問するよう命じた。訒らはその誣告であることをすべて明らかにしたうえで、なお聨を死罪とし、その子は朝官を詐称した律により斬とし、纘宗らのためには宥免を乞うた。
  • 帝は法司の奏に従って聨父子を死罪としたが、心では纘宗を憎み、しきりに詰責し、禮部・都察院に下して参議させた。嚴嵩が取りなしたので、纘宗は革職・杖四十、訒も除名、法司の正・貳は半年の俸を停められ、審問を担当した郎官は詔獄に下された。嵩は詔に応えて獄を裁いた功で大學士の俸を兼支させられたが、辞退して許された。
  • 当時、法官はおおむね法を曲げて上意に従い、少しでも正論を通すとすぐに譴責が来た。訒はこの獄で法を貫き、身は退けられたが天下は称賛した。

胡纘宗

  • 胡纘宗は陜西秦安の人。正徳三年(1508年)の進士で、検討から嘉定判官に出て、山東巡撫を歴任し河南に改められた。