出自と河南の振済
- 王杲は字を景初といい、汶上の人。正徳九年(1514年)の進士で、臨汾知縣に任じられ、御史に抜擢された。陜西の茶馬を巡視した。帝が中官を派遣して蘭州・靖虜を分守させたので、杲は「辺境の窮乏した飢饉の年に官を置いて民を煩わすべきでない」と述べたが返答はなかった。
- 嘉靖三年(1524年)、帝が中官を派遣して蘇州・杭州の織造を監督させようとし、杲は上疏して諫めたが容れられなかった。
- 久しくして太僕少卿に抜擢され、大理に移り、二度移って左副都御史、戸部右侍郎に進んだ。河南が大飢饉となり杲に振済を命じた。杲は急ぎ帑金を出すことを請い、詔して臨清倉の銀五萬兩を持たせた。到着後さらに十五萬兩の支出を請い、救われた者は数えきれなかった。任務が終わって銀と幣を賜った。
漕運と戸部尚書
- ついで右都御史として漕運を総督した。先例では運送船の修繕費用は軍が三、民が七の負担だった。総兵官の顧寰が軍民の疲弊を理由に兩淮の余塩銀七十萬の支出を請うたが、戸部尚書の李如圭は不可とした。杲は二年分の漕運の十分の三を銀納に改め、浮いた輸送費で運送船を修理し、軍民を重ねて苦しめないことを請い、許可された。
- 翌年、中央に入って戸部尚書となった。后の父である安平侯の方銳が張家莊の馬房の地を求めたが、杲は「この地は二千余頃、正規の年貢の出るところで許すべきでありません。大慈恩寺から官に没収した地二十頃を与えるのがよい」と述べ、帝はその議に従った。
- 当時、国家の備蓄は乏しく、諸辺から餉の増額を求める請願が月々絶えず、各地に水害・旱害が多かった。給事中の李文進が備蓄を厚くする議を請い、杲は九事を列挙して献じ、さらに財用を制する十事を上申し、帝はいずれも容れた。
- 旧制では毎年の漕運は四百萬石。杲は粟に余りがあるのに費用が足りないので、災害に遭うとおおむね銀納に改めて民に便宜をはかった。ある日、帝は改折が半分を超えているのを見て大いに驚き戸部を詰問した。杲らは罪を認め、今後は祖法を遵守して軽々しく変えないよう敕された。杲は国家財政を掌って処理できないことがなく、帝は深く頼りとした。
収賄の弾劾と雷州での死
- のち龍延香を買う詔があったが久しく献上されず、帝はこれを不快とした。給事中の馬錫が杲および巡倉御史の艾朴の収賄を弾劾し、給事中の厲汝進は倉場尚書の王暐も同様だと述べ、ともに下獄した。杲と朴は遣戍、暐は退けられて庶民とされた。杲はついに雷州の戍所で卒した。
- 隆慶の初め、給事中の辛自修らが杲の冤を訴え、詔して復官、祭葬を賜り、太子太保を贈られた。
王暐
- 王暐は句容の人。進士から吉安推官に任じられ、王守仁に従って宸濠を平定し、大理寺副に移った。大礼を争って下獄・廷杖を受けた。しばしば移って右副都御史となり江西を巡撫した。両京の戸部侍郎を歴任し、外に出て漕運を督し、尚書に進んだ。官歴を通じて清潔な操守で知られた。