明史卷二百二 列傳第九十 唐龍

出自と御史時代

  • 唐龍は字を虞佐といい、蘭谿の人。同県の章懋に学んだ。正徳三年(1508年)の進士で、郯城知縣に任じられ、大盜の劉六を防いでしばしば破り、俸を二等加えられた。父の喪に服し、明けて召されて御史となった。
  • 雲南を巡按したとき、錢寧の義父である參將の盧和が罪により死罪に当たった。寧が弁明を奏上して鎮撫司の再審に下し、囚人を録する官が派遣された際に寧の依頼を受けて和を助けようとしたが、龍が押しとどめてその罪を正した。
  • 土官の鳯朝明が罪により死罪となり世襲の職を剥奪されると、寧は滇の人々に保挙させ、詔を偽ってこれを許した。龍は抗議の上疏をして争い、その件を取り止めさせた。
  • 再び江西を巡按し、上疏して張忠・許泰の帰還を促した。三司の官で宸濠に従って叛いた者がなお在職していたので、龍は召し出して数え上げ、「脅されて従った者は罪に問わぬというのは一般の民のことだ。お前たちは書を読み禄を食んでいながら、何と厚顔なことか」と言い、その場で印綬を取り上げた。

三邊の総制と救荒

  • 陜西提學副使に抜擢され、山西按察使に移り、太僕卿に召された。嘉靖七年(1528年)、右僉都御史に改められて漕運を総督し、鳯陽ら諸府の巡撫を兼ねた。淮西の官馬と種牛を奏請して廃し、夀州正陽関の榷税、通州・泰州の実体のない田租、および漕卒の船料を廃止し、民は大いに徳とした。召されて左副都御史を拝し、吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。
  • 十一年(1532年)、陜西が大飢饉となり、済農が衆を率いて辺境に迫り、延綏が警報を発した。詔して龍を兵部尚書に進め、三辺の軍務を総制させ振済も兼理させ、帑金三十萬を持たせて赴かせた。龍は救荒十四事を奏請して実施した。
  • 当時、吉囊は河套の中におり、西は賀蘭山に至るまで黄河に阻まれて渡れなかったが、牛皮で浮き袋を作って渡り山の背後に入った。諳達もまた豐州から河套に入って害をなした。龍は総兵官の王效・梁震を用いてしばしば敵を破り、たびたび奨賞を受けた。

刑部尚書としての執正

  • 刑部尚書に召された。大悪人の劉東山が建昌侯張延齡を陥れて大獄を起こした。延齡は昭聖皇太后の実弟で、帝の憎むところであった。獄を徹底しなかったとして退けられた官吏は数十人にのぼったが、龍はひとり東山の罪を正した。
  • 大礼の大獄および建言で罪を得た者について、廷臣がたびたび寛大な処置を請うても容れられなかった。九廟が完成して恩赦が行われた際、龍は充軍のうち赦に該当する者百四十人を書き上げ、おおむね宥された。赦されなかったのは豐熙・楊慎・王元正・馬録・吕經・馮恩・劉濟・邵經邦だけであった。
  • 尚書として六年を満たし太子少保を加えられた。母が老いたので帰郷して養うことを乞うた。久しくして推薦により南京刑部尚書に起用され、そのまま吏部に改められた。兵部尚書の戴金が罷められると召されて代わった。太廟が成って太子太保を加えられ、ついで熊浹に代わって吏部尚書となった。

晩年の失脚と子の汝楫

  • 龍は才があり、官にあって功績も著しかったが、吏部に来てからは事ごとに部下に諮り、年老いて病が多く、そのたびに欺かれた。御史の陳九徳が前の選郎髙簡の上を欺き私を行うことを弾劾し、あわせて龍の老衰を論じ、簡は詔獄に下された。龍は病を理由に辞そうとしたが返答がなく、吏科の楊上林・徐良輔がさらに簡を論じたので、詔して簡を杖六十のうえ遣戍とした。上林・良輔は早く言わなかったとして罷職、龍は退けられて庶民とされた。龍はすでに病があり、輿で国門を出て卒した。
  • 数年後、子で修撰の汝楫が上疏して弁明し、詔して復官、少保を贈られ、諡は文襄。龍はもともと嚴嵩と親しく、龍の罷免は実は夏言が主導したものだった。汝楫は平素から嵩に附いて第一位で及第し、官は左諭徳に至ったが、のち嵩の一党として官を奪われた。