明史卷一百九十七 列傳第八十五 霍韜

南海の人、字は渭先。正徳九年の会試に首席で及第し、世宗即位後に職方主事となって閣臣の権と側近の政への干渉を論じた。大禮の議では『大禮議』を作って毛澄に反駁し、孝宗を「皇伯考」、獻帝を「皇考」と称すべしと主張して張璁・桂萼と並ぶ議礼派の一人となった。禮部尚書・吏部左右侍郎・南京禮部尚書を歴任し、二郊の分祀をめぐって夏言と衝突して一時獄に下り、以後は終始夏言を攻め、晩年は郭勛と結んだ。学識広く建言も多かったが度量が狭く、行く先々で人と争って大用されなかった。五十四歳で任地に没し、太子太保を贈られ諡は文敏。

年表(6件)
  • 正徳九年1514年会試に首席で及第し、帰郷ののち西樵山で読書して経史に通ずる
  • 嘉靖三年召しに応ぜず上疏し、正統の大義と天倫の大経を並べて両宮の隙を防ぐ道を説く
  • 六年還朝して經筵の日講を固辞し、『古今政要』および『詩』『書』の直解の撰進を請う
  • 六年九月詹事兼翰林學士への遷任を固辞し、内閣が翰林を属官として囲う弊を論ずる
  • 十二年起用されて吏部左侍郎・右侍郎を歴任し、汪鋐と争って侍郎の部務参与を実現する
  • 十八年太子少保・禮部尚書として詹事府の事を協掌し、加階を辞しつつ夏言を誹る

出自と初期の建言

  • 霍韜は字を渭先といい、南海の人である。正徳九年(1514年)の会試に首席で及第し、暇を請うて帰郷して婚礼を挙げ、西樵山で読書して経史に広く通じた。
  • 世宗が即位すると職方主事に任ぜられた。楊廷和がちょうど政を執っていたので、霍韜は上言した。
  • 閣臣の職は機務に参ずることである。いまは票擬をするだけで裁決は側近に帰しており、輔臣は参贊の権を失い、側近が政に干渉する端緒が開かれている。今後は章奏について大臣を召して面と向かって決めて施行し、講官・臺諫を左右に並ばせて衆で議し公に反論させれば、宰相は善を採る名を得、内臣は権を握るという謗りを免れる、と。
  • あわせて、錦衣は刑獄を掌るべきでないこと、東厰は朝議に関与すべきでないこと、撫按・兵備の官は軍功で官階や廕を与えられるべきでないこと、興府で得た衛の軍をすべて京に取り入れて一律に官職を授けるべきでないこと、御史の謝源・伍希儒は難に赴いて功があったのに罷免すべきでないこと、逆藩を平らげた功は安慶・南昌のほかは濫りに叙すべきでないことを述べた。帝は嘉して容れた。

大禮の議、最初の上疏

  • 大禮の議が起こると、禮部尚書の毛澄は孝宗を考とすることを強く主張した。霍韜は私に『大禮議』を作って反駁した。毛澄が書を送って問い質したので、霍韜は三度書を送ってその非を極論したが、毛澄の意は変わらないと悟った。
  • その年十月、上疏して述べた。
  • 廷議は、陛下は孝宗を父とし興獻王を叔とし、別に崇仁王の子を選んで獻王の後とすべきだと言う。だが古礼に照らせば合わず、聖賢の道に質せば通らず、今日の事体に照らせば順わない。
  • 『儀禮』喪服章に「斬衰は所後者のためにする」とあり、また「人の後となる者はその父母のために報の服をする」とある。所後者を父母と称する説はなく、本生の父母を伯叔父母と改称する言もない。
  • 漢儒はその義に明るくなく、□(底本欠字)って邪説をなし、「人の後となる者はその子となる」と言った。もしその言のとおりなら、漢の宣帝は昭帝の後となるはずである。しかし昭帝は従祖であり宣帝は従孫である。孫が祖を父と呼んでよいか。唐の宣宗は武宗の後となるはずである。しかし武宗は姪であり宣宗は叔である。叔がかえって姪を父と呼んでよいか。呉の諸樊ら兄弟四人は国を相譲り受けたが、これは代わる代わる互いの後となったわけで、兄弟がそれぞれ高祖・曽祖・祖・考を持つことになる。それでよいのか。ゆえに古礼に照らせば合わない、と申すのである。
  • 天下は天下の天下であって、一人が私できるものではない。宋人はその君に「仁宗は宗室の中から特に聖明を選び大業を授けられた。陛下が扉を背に冠をつけて四海を富み、子孫万世に相承けるのは、みな先帝の徳による」と告げた。つまり仁宗が天下を英宗に授けたのだから、本生の父母を捨てて仁宗を父母とすべきだというのである。
  • 臣が聖賢の道から見るに、孟子は「舜が天子であったとき瞽瞍が人を殺し、皋陶がこれを捕らえたら、舜はひそかに背負って逃げるだろう」と言った。これは父母が重く天下が軽いということである。宋儒の説では天下が重く父母が軽い。ゆえに聖賢の道に求めれば通らない、と申すのである。
  • 武宗は孝宗を嗣いで十六年、孝宗に嗣がなかったわけではない。いま無理に陛下を重ねて孝宗の嗣にしようとするのは何のためか。陛下が孝宗の子となるなら、誰が武宗の子となるのか。孝宗には二人の嗣子があり、武宗にだけ嗣子がなくてよいのか。臣子が君父に対する心は同じである。孝宗に嗣がないのを忍びないとしながら、武宗に嗣がないのは忍べるのか。
  • 武宗は兄だからもとより弟の祀りを享けられると言うなら、孝宗は伯だから姪の祀りを享けられないのか。武宗を飛び越えて直に孝宗を継げるなら、あわせて孝宗をも飛び越えて直に憲宗を継いでもよいのではないか。
  • 武宗に嗣がないのはどうしようもない。孝宗には嗣があるのに、無理にその嗣を継がせて興獻の嗣を絶つのは、孝宗には何の益もなく、興獻には大きな損ではないか。ゆえに今日の事体に照らせば順わない、と申すのである。
  • そもそも臣下がこの議をなす理由は三つある。前代の故事にとらわれること、孝宗の徳を忘れないこと、迎合の嫌疑を避けることである。
  • いま陛下は既に孝宗を考とされ、興獻王を帝号で尊ばれた。これで終わりでよいのか。
  • 臣が思うに、帝王が相継ぐのはその統を継ぐだけであって、父子の称にこだわるものではない。ただその統を継ぎさえすれば、孝宗の統が絶えないばかりか武宗の統も絶えない。
  • ではどうすればよいか。陛下が興獻王に対して父子の称を正して天性の恩を絶たず、国母を迎えるにあたって天子の母たる礼を正し、そのうえで昭聖太后と武宗皇后に対する処し方に道があり、仕えるに誠を尽くされれば、尊を尊び親を親しむことは両立して背かない、と。
  • 帝は疏を得て大いに喜んだが、群議に押されてすぐには実行できなかった。朝廷の士はみな霍韜を邪説と指弾した。霍韜は居心地が悪く、まもなく病と称して帰郷した。

嘉靖三年の上疏

  • 嘉靖三年、帝が生みの親を尊崇する議をいよいよ急ぎ、二度詔して霍韜を召したが、霍韜は病と称して赴かず、馳せて上疏して述べた。
  • 今日の大禮の議は二つに尽きる。正統の大義を崇めることと、天倫の大経を正すことである。ただ正統だけを尊べば、その弊は天下を利として父母を捨てるに至る。ただ天倫だけを重んじれば、その弊は小が大を凌ぎ卑が尊を越えるに至る。
  • ゆえに臣は、陛下は孝宗を「皇伯考」、獻帝を「皇考」と称すべきだと申す。これが天倫の弁ずべきところである。尊崇の議はしばらく緩めてよい。これが大統の崇むべきところである。
  • ところが廷議は、陛下に孝宗を考としながらあわせて獻帝をも考とさせようとしている。これは漢人の両統の誤りである。本源が既に違っているので、議すれば議するほど誤る。
  • 臣の愚慮はただ、陛下に未然の失を防ぎ、将来の悔いを重ねさせぬことだけである。
  • はじめ陛下が昭聖皇太后を母と尊ばれたのは、礼に合わぬとはいえ、宮闈の内も落ち着いていた。いま一朝にして改称するのは、人情にはなはだ堪えがたい。願わくは陛下が臣らの建議の趣旨を皇太后に申し上げられたい。必ず心から喜ばれ、疑いの隙も生じまい。万一お分かりいただけなければ、臣らに罪を帰して誅斥を加えられ、そのうえで委曲を尽くして申し上げ、必ずその歓心を得られたい。陛下が朝夕にその意を承け憂いを慰められるのも、極を尽くさぬところがあってはならない。そうすれば名分が正され隙が消え、天下万世に非議するところがなくなる。これが臣の愚慮の一である。
  • 昭聖の嫡嗣は武宗一人であった。武宗に嗣がなく、荘肅皇后の望みも絶えた。臣が思うに、陛下が昭聖に仕えられる礼の序列がいかに尊崇を極めても、その勢いは日々軽くなり、陛下が聖母に仕えられる尊称がたとえ十分でなくとも、その勢いは日々重くなる。ゆえに今日、廷臣がしきりに大統を尊び昭聖を母とすることを請うのは、陛下の将来の失を予防し、孝宗に報いる職分を果たそうとするものである。
  • 臣はかつて明詔を拝読したが、正統の大義に背こうとはされていない。陛下が昭聖を尊び荘肅を敬われる心は、上は天地に質し下は士庶に信ずるに足る。ただ恐れるのは、側近の者が聖意を解さずみだりに疑いを生じ、あるいは末節の飾りごとで両宮の隙を作ることである。これは早くから慮って予防しないわけにはいかない。
  • 願わくは陛下が臣らの建議の趣旨を聖母に申し上げ、こう述べられたい。昭聖皇太后は実に大統の嫡宗で、至尊にして並ぶ者がない。伏して願わくは聖母がつねに自ら謙り、尊敬の至意を示されたい。荘肅皇后は天下に母として臨むこと十六年である。聖母が接見される儀礼を軽んじてはならない。元旦と賀寿にあたっては、聖母は必ず謙譲して受けぬ意を示され、宮闈の大権をひとえに昭聖に帰し、聖母は関与されぬようにされたい。そうすれば天下万世が懿徳を称えることは天のごとく極まりない、と。
  • 万一、聖母がなおお分かりにならなければ、やはり臣らに罪を帰して誅斥を加えられ、そのうえで委曲を尽くして申し上げ、必ずご承知を得られたい。そうすれば宗統が正され隙が消え、天下万世に非議するところがなくなる。これが臣の愚慮の二である、と。
  • 帝は深くその忠義を嘉し、急ぎ入朝させた。

辞退を重ねる

  • 翌年、少詹事兼侍講學士に抜擢されたが、霍韜は固辞し、あわせて建言した。六部の長官・次官、翰林、給事中、御史をすべて外任に回して政務の実際を鍛え、監司・守令で政績が卓越した者はそのまま卿・丞に抜擢し、文学のある者は翰林に抜擢し、舉貢から仕えた者もみな翰林に抜擢し部院に昇進できるようにして、資格に縛られないようにすべきである、と。帝は辞退を許さず職に就くよう促し、その奏は担当官に下されたが、いずれも阻まれて用いられなかった。
  • 六年、還朝して經筵の日講に侍するよう命ぜられたが、霍韜は自分が南方訛りだからと日講を力辞し、代わりに『古今政要』および『詩』『書』の直解を撰して進めたいと請うた。帝は褒めて許した。
  • その年九月、詹事兼翰林學士に遷ったが、霍韜はまた固辞して述べた。楊榮・楊士竒・楊溥から李東陽・楊廷和に至るまで権を専らにし党を植え、翰林を属官のように、中書を門下の吏のように囲い込んだ。だから翰林の昇進は吏部を経ず、中書に尚書の位まで進む者があった。臣はかつて建議して、翰林の去留はすべて吏部に属させ、ひそかに内閣を腹心と頼ることがなく、内閣もひそかに翰林を羽翼と結ぶことがないようにすべきだと申し、あわせて京官を外に補して労逸を均しくしたいと申した。その議が実行されぬうちに自ら踏み外し、しかも徐縉を飛び越えて學士の位に居るのでは、これ以上の恥はない、と。帝は手厚い詔で許さなかった。
  • 翌年四月、禮部右侍郎に進んだ。霍韜は力辞し、あわせて康海・王九思・李夢陽・魏校・顔木・王廷陳・何瑭を後任に推した。帝は許さず、再度辞退してようやく許された。
  • 六月、大禮が成って、禮部尚書に飛び越えて任ぜられ、詹事府の事を掌った。霍韜はそれを機に、翰林院で書を編めば官が上がること、日講で子に廕が与えられること、巡撫の子弟に武職の廕が与えられることの非を述べ、自分が力ずくで押し戻せない以上、衆に従って進むわけにはいかないとした。あわせて給事中の陳洸の冤を訴え、監生の陳雲章の才が用いるに足ると推薦した。帝は手厚い詔で褒め答え、辞退は許さなかった。
  • 霍韜はまた奏して述べた。いま異論を唱える者は、陛下がひたすら皇考を尊崇しようとして官爵で臣を釣ったのだ、臣らの二、三の臣は官爵を欲して陛下の意に阿ったのだ、と言っている。臣はかつて、礼が定まったなら決して官を受けまい、天下万世に礼を議した者が官を利としたのではないことを知らせたいと思っていた。もし礼を議した者が官を利としたと疑われれば、その議が正しくても人はなお非とする。それでは天下の口を塞げない、と。そこで固辞して拝命しなかった。帝はなお許さず、三度辞退してようやく許した。
  • 霍韜は前後して王守仁・王瓊らを推薦し、帝はみな用いた。かつて災異に託して時弊十余事を陳べ、多くが議のうえ施行された。

夏言との対立と入獄

  • 張璁・桂萼が政から退けられたとき、霍韜は言官の陸粲らが楊一清の指図を受けたとして、二度の疏で楊一清を力攻し、その職を奪わせ、張璁・桂萼を召し戻させた。
  • 帝が夏言の議に従って天地を分けて祀り二郊を建てようとしたとき、霍韜はその非を極言した。帝は不快として、霍韜が上を欺き恣にしていると責めた。夏言もまた上疏して弁じ、霍韜を厳しく誹った。
  • 霍韜はもとより先に述べた自説を守る性質であったが、帝の怒りを見て弁明できず、そこで夏言に書を送って痛烈に誹り、さらにその書を写して法司に送った。夏言は怒って上疏してその様子を陳べ、あわせて霍韜の「無君」の七罪を弾劾し、その書もあわせて進呈した。
  • 帝は激怒し、霍韜が君上を謗り正しき者を醜め邪心を抱いていると責め、都察院の獄に下した。霍韜は獄中から上書して哀れみを乞い、張璁も重ねて救おうとしたが、帝はいずれも容れなかった。
  • 南京御史の鄧文憲が「霍韜の心を察してその愚直を容れられたい。しかも天地を分けて祀るのは父母を別々の所に置くことであり、郊外での親蠶は内外の隔てを廃することである」と述べたので、帝は怒って辺境に左遷した。
  • 霍韜は繋がれること一か月余り、帝は結局その礼を議した功を思って、贖金を納めさせて職に復させた。
  • まもなく母の喪で帰郷した。広東僉事の龔大稔が霍韜と方獻夫の郷里での不法を告発したが、龔大稔がかえって逮えられて削籍された。

吏部での職務

  • 十二年、起用されて吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。当時、部の事務はおおむね尚書が主導し、二人の侍郎はほとんど関与しなかった。霍韜が尚書の汪鋐と争って、侍郎ははじめて部の事務に参与できるようになった。霍韜はもとより剛情で、たびたび汪鋐と争い、汪鋐らも厳しく憚った。
  • やがて汪鋐が罷められ、帝は長く尚書を置かず、霍韜に部の事務を掌らせた。
  • 閣臣の李時が旨を伝えて鴻臚卿の王道中を順天府丞に用いようとしたとき、霍韜は「輔臣が天の言葉を承けたものであるから疑うべきではないが、臣らはなお奏請して偽りを防ぐべきである」と述べ、故事に従って王道中と應天府丞の郭登庸の二人の名を挙げて奉った。帝はその法を守る姿勢を嘉し、郭登庸を用いて、王道中は大理少卿に改めた。
  • 久しくして、霍韜は南京禮部尚書として出された。

劉淑相の事件と夏言との告発合戦

  • 順天府尹の劉淑相が親しい者の不正に連座して取り調べを受けたとき、禮部尚書の夏言の姻族である通判の費完が陥れたのではないかと疑い、夏言が事件を頼み込んだと告発した。帝は怒って劉淑相を詔獄に下した。劉淑相は霍韜と親しかったので、夏言もまた霍韜が主導したと疑った。
  • そこで夏言は、霍韜が供奉で陵参りに従ったとき銀山寺まで遠出したのは大不敬であると告発した。霍韜は自ら訴えたうえで、夏言が故少師の費宏に「文憲」の諡を請いながら費宏がたびたび弾劾された事実を記さなかったことを論じ、「律に照らせば重要な情節を増減した者は斬である。しかも『憲』は純皇帝の廟号であって、人臣が用いてよいものではない」と述べた。
  • 折しも南京給事中の曽鈞が馬に乗って尚書の劉龍・潘珍の駕籠を避けなかった。劉龍と曽鈞が互いに告発したので、霍韜は曽鈞を弾劾し、あわせて下位の臣が駕籠に乗るのを禁ずるよう請うた。給事中の李充濁・曹邁らが相次いで、近侍の臣は道を避けるべきでないと述べ、公の会合や宴席で尚書と同列に並べる例を種々挙げて証としたが、その言葉はかなり霍韜を侵していた。
  • 霍韜は李充濁が夏言を後ろ盾にしていると疑い、李充濁を党派だと告発し、さらに夏言の他の事を拾い上げた。夏言はいよいよ怒って霍韜の大罪十余事を奏し、あわせて「彭時と宋濂はいずれも正徳のうちに文憲と諡され、廟号を避けていない。霍韜は無知で故事を知らない」と述べた。
  • 帝はちょうど霍韜を非としていたところへ、劉淑相がまた獄中から夏言の他の事を拾い上げたので、帝はいよいよ怒って取り調べさせたところ、霍韜の主使であったと自白した。そこで劉淑相を庶民に落とし、霍韜の俸を一級下げた。
  • 駕籠の件を議したとき、夏言は弾劾されていて加われなかった。都御史の王廷相が禮部侍郎の黄宗明・張璧とともに、霍韜の奏のとおり下位の臣を戒め禁ずるよう請うたが、南京の給事中・御史はなお霍韜の言だとして反発した。帝が重ねて申し渡すと、衆の不満はますます募った。
  • 曹邁および同僚の尹相らはついに霍韜と憤り争い、霍韜が南京の部に移されたのを恨んで、勝手に海子の魚を取って郷人と郊壇の松の下で酒盛りをしたこと、侍郎の袁宗儒が一年の喪中で表を進めるべきでないのに無理に行わせたことを弾劾した。霍韜は上疏して自ら弁じ、廷議に下された。帝は霍韜の俸を四か月停め、尹相らも二か月停めた。

夏言への攻撃と最期

  • 霍韜は夏言と反目してから、夏言が権を握ると、そのつど事にかこつけて陥れようとした。
  • 上言して述べた。先ごろ吏部が劉文光らを給事中に選んだのに、まもなく突然取りやめになった。人はみな閣臣が抑えたと言う。給事中の李鶴鳴は考察で左遷されたのに、まもなくもとに復した。人はみな賄賂で得たと言う。吏部に諭して、当事者の顎の指図を受けさせぬようにされ、威福が朝廷から出ることを天下に知らしめ、大臣で李林甫や秦檜のような者が左右で弄ぶことのないようにされたい、と。その意は夏言に向けられたものである。
  • そこで李鶴鳴が上疏して自ら潔白を訴え、あわせて霍韜の郷里での不法の諸事を拾い上げた。帝は双方を放置した。
  • まもなく霍韜が南京御史の龔湜・郭本を弾劾し、龔湜らも自ら弁じて霍韜を弾劾したが、帝はいずれも不問に付した。
  • 十八年、東宮の官僚を選び補うにあたって、霍韜に太子少保・禮部尚書として詹事府の事を協掌させた。霍韜は上疏して加階を辞退し、あわせて「大臣は禄を受けて譲らず、位が上がっても辞さない。あるいは狐や鼠のように潜り込んで結び、ひそかに寵と権を固め、怨気が災いを招く。実にゆえあることである」と誹った。その意もまた夏言に向けたものである。
  • たびたび夏言を攻めて勝てなかったので、最後に郭勛が夏言と隙があるのを見て、ひそかに郭勛と結んでともに夏言を陥れようとした。
  • 当時、中外に帝がまた南方に行幸するとの流言があった。霍韜はそれに乗じて公然と郭勛を称え、「先に南巡された折、臣下の多くが賄賂を受けて不法を働いたが、文官では袁宗儒だけ、武官では郭勛だけが贈り物を受けなかった。いま流言がまた広まっている。禁ずる手立てをお取りになるべきだ」と述べた。
  • 帝は詔を下して人心を安んじたうえで、霍韜を詰問して「朕が先に南巡したとき卿は供奉に加わっていない。収賄の事を誰から聞いたのか。事実に基づいて奏せよ」と言った。霍韜は「郭勛にお尋ねください」と答えた。帝はそれを言い逃れと責め、実情を指し示せと迫った。
  • 霍韜は窮して述べた。供奉に従った諸臣で贈り物を受け人夫を割り取らなかった者はない。ただ夏言に問い、自ら述べさせられたい。各官の収賄の実跡については郭勛が始末をすべて知っており、偽りはないはずである。もしどうしても臣に言わせたいのであれば、臣に風憲の職を借りて道筋に沿って調べさせていただきたい。備さに列挙して奏する、と。
  • 章は担当官に下されたが、霍韜は帝の意に沿えなかったことを恐れた。まもなく京に赴き、道中で出会った鮮魚を運ぶ船の内臣の貪欲・横暴の様子を列挙したが、帝はこれも問わなかった。
  • 翌年十月、任地で没した。五十四歳。太子太保を贈られ、諡は文敏である。

人となりと事績

  • 霍韜は学識が広く才は高かったが、度量が狭く、行く先々で人と争った。帝もかなり内心で厭い、それゆえ大いには用いなかった。
  • 前後して建言するところが多く、かなり国家の大計に関わるものであった。また大禮・大獄で罪を得た諸臣、および籍を削られた李夢陽・康海らを推薦した。
  • 南都にあっては、喪家での宴飲を禁じ、婦女が寺観に入るのを絶ち、娼家が良人の女を買うのを罪とし、淫祠を壊し、社倉を建て、僧尼を還俗させ、忠節を表彰した。去ったのちも士民は慕った。
  • はじめ張璁・桂萼と結び、のちには郭勛と組んだ。
  • 進士に及第したのは毛澄の門下であり、もとは弟子の礼を執っていたが、礼の議で合わなくなると座主と呼ばなくなった。張璁が己丑の会試を主宰したときも、そのまま唐順之らを門生としなかった。
  • 礼を議したときには司馬光を誹り、のちに薛瑄の従祀を議したときには、遡って司馬光は孔子廟に祀るべきでないとまで論じた。世論を顧みないことがこのようであった。

霍與瑕

  • 子の與瑕は進士となり、慈谿知縣に任ぜられた。鄢懋卿が塩政の巡察で管内を回ったとき、與瑕が礼を尽くさなかったので弾劾されて罷免された。のち鄞縣の知縣に起用され、廣西僉事を最後の官とした。