明史卷一百九十七 列傳第八十五 席書

遂寧の人、字は文同。弘治三年の進士で、郯城知縣から工部・戸部の官を歴任し、貴州提學副使のときには左遷されてきた王守仁に州県の子弟を学ばせた。湖廣巡撫を経て嘉靖初年に大禮の議へ加わり、「皇考興獻帝」と称して別に廟を立てる案を建議、禮部尚書として孝宗を「皇伯考」とする大議をまとめ、尊称を確定させた。顯陵の改葬や獻皇帝を太廟に祀る世室の建立には反対し、楊一清・王守仁の入閣を推した。礼を議した功で少保・武英殿大學士に至り、太傅を贈られ諡は文襄。思い切りはよいが偏屈で、李鑑の獄や陳洸の擁護、費宏の排斥は私意として世論に斥けられた。

年表(8件)
  • 十六年雲南の災異を地方官の責とする樊瑩の奏を斥け、朝廷の弊政の改革を上疏する
  • 𢎞治三年1490年進士に及第し郯城知縣となり、入って工部主事となる
  • 嘉靖元年1522年南京兵部右侍郎に移り、命を受けて江北の大飢饉を振給する
  • 三年正月大禮の議を桂萼に託し、「皇考興獻帝」と称して別に廟を立てる案を上げる
  • 三年八月禮部尚書として入朝し、廷臣と大議して孝宗を「皇伯考」とする議を上げる
  • 四年何淵の世室建立の請を斥け、別に禰廟を立てる議に落着させる
  • 五年秋章聖太后の廟参りを聖裁に委ね、礼を議して流された諸臣の召還を請う
  • 嘉靖十二年弟の春が禮部右侍郎から吏部に移る

篇首の立伝者一覧

  • 席書(弟・春、篆)
  • 霍韜(子・與瑕)
  • 能浹
  • 黄宗明
  • 黄綰(陸澄)

出自と災異の上疏

  • 席書は字を文同といい、遂寧の人である。𢎞治三年(1490年)の進士で、郯城知縣に任ぜられ、入って工部主事となり、戸部に移って員外郎に進んだ。
  • 十六年、雲南で昼が暗くなり地震が起こったので、侍郎の樊瑩に巡視を命じた。樊瑩は監司以下三百余人の罷免を奏した。
  • 席書は上疏して述べた。災異は朝廷に関わるもので雲南に関わるものではない。人が元気を内に損なってはじめて瘡が四肢に出るようなものである。朝廷は元気、雲南は四肢である。毒の源を放置して四肢の末端だけを治してよいものか。
  • いま内府の供給は往年の数倍、無駄飯を食む官が数千、投じて校尉となる者が数万、齋醮と寺観は絶える日がなく、織造は頻繁で、賞賜は度を越え、皇親は民田を奪い、宦官は増派して止まらない。大きな獄では自白調書に依って弁明も許されず、刑官も申し立てられない。賢明な大臣は起用されず、事を言って左遷された小臣は復されず、文武の官が伝旨で昇進して名器はひどく乱れている。
  • 災異の警告がたまたま雲南に現れただけで、それを遠方の地方官に負わせようとは、どういう道理か。
  • 漢が八人の使を天下に巡らせたとき、張綱ひとりが「豺狼が道に当たっている。狐狸を問うてどうする」と言った。いま樊瑩は巡察の職にありながら外戚や大臣を弾劾できず、ひとり雲南の官吏だけを退けている。本を捨てて末を治めるものである。
  • 陛下には臣の申した弊政を一切改めていただき、その他、除くべき大害と挙げるべき大政は、みな担当官に条列して奏させて実行されたい、と。当時は用いられなかった。

武宗の朝から嘉靖初年まで

  • 武宗のとき河南僉事、貴州提學副使を歴任した。そのころ王守仁が龍場駅の丞に左遷されていたので、席書は州県の子弟を選んで王守仁に教えさせ、その地の士人ははじめて学問を知った。
  • 累進して福建右布政使となった。寧王宸濠が反すると急ぎ兵二万を募って討ちに向かったが、到着したときには賊は既に平定されており、そのまま帰った。
  • まもなく右副都御史として湖廣を巡撫した。中官の李鎮と張𤾉が進貢や御鹽の名目で十余万を集めていたので、席書は上疏して暴いた。
  • 嘉靖元年(1522年)、南京兵部右侍郎に移った。江南・江北が大飢饉となったので、命を受けて江北を振給し、州県に十里ごとに一つの厰を置いて粥を煮て食べさせ、救われた者は数知れなかった。

大禮の議への参入

  • はじめ席書は湖廣にあって、中央で大禮の議が定まらないのを見て、帝の意が張璁・霍韜の議に向いていると察し、意見を述べた。
  • その趣旨はこうである。昔、宋の英宗は濮王の第十三子として出て人の後となった。今上は興獻王の長子として入って大統を承けられた。英宗が嗣に入ったのは仁宗が衮衣をつけて君臨していたときであり、今上が継いで入られたのは宮車が崩じた後である。
  • 議者は、陛下は武宗の統を継がれたのだから、なお興獻帝の子として別に廟を立てて祀るべきだと言う。張璁・霍韜の議も誤りではない。
  • しかし尊きに二帝はない。陛下は武宗に対して親としては兄弟、分としては君臣である。既に孝宗を宗廟の主と奉じている以上、ほかの称があってよかろうか。「皇考興獻王」と称すべきである。これは万世不変の典礼であり、臣が三、四度執奏したのも誤りではない。
  • しかし礼はもともと人情に基づく。陛下は天子として尊く、慈聖に尊称がなくてよいものか。だから生みの親を「帝」「后」と尊んで、上は慈闈を慰められるのである。これは情としてやむを得ない。
  • 今日の議としては、号を「皇考興獻帝」と定め、大内に別に廟を立て、季節ごとに太廟の祀りを終えたのち、なお天子の礼で祭るのが一つの道であろう。別に廟で祀れば大統は正しく昭穆も乱れず、特別の称号で高めれば至愛は篤く本支も損なわれない。尊を尊び親を親しむことが両立して背かない。
  • 慈聖については「皇母某后」と称すべきで、「興獻」を加えてはならない。「獻」は諡である。今日それを加えるのが適切であろうか、と。
  • 議はできあがったが、中央では張璁を邪説と誹る声が競い合っていたので、席書は恐れて上げられず、ひそかに桂萼に見せた。桂萼はその議に賛同し、三年正月、疏を作ってあわせて上げた。
  • 帝は大いに喜び、急ぎ召して対面しようとした。ところがまもなく獻帝を「本生皇考」と改称する詔が出たので、召命は取りやめとなった。

禮部尚書としての大禮の決着

  • 折しも禮部尚書の汪俊が廟の建立を争って位を去ったので、特旨で席書が代わった。故事として禮部の長官・次官はおおむね翰林の官から用いられていた。このとき廷臣は異論を排することにいよいよ力を入れ、席書の昇進も廷推によらなかったので、文章を作って席書を誹り、飢饉の振給が不当で着服が多いとまで中傷した。
  • 席書もたびたび新しい任命を辞退し、あわせて『大禮考議』を記録して奉り、官を遣わして振給の実情を調べさせるよう請うた。帝は司禮の中官、戸部・刑部の侍郎、錦衣指揮を遣わして調査させ、そのうえで席書に入朝を促した。
  • 司禮の使いが徳州まで来たころには、廷臣は既に闕下に伏して哭して争い、ことごとく詔獄に繋がれていた。席書は馳せて上疏し、「礼を議する者は集まって訴え合うと言われるが、二つの議が対立すれば必ず一方が正しい。陛下は正しいほうを選ばれ、正しくないほうは深く咎めるに及ばない。その過失を許して自ら改める道を得させられたい」と述べた。許されなかった。
  • その年八月に入朝すると、帝はことのほか労った。一か月余りして廷臣と大議を行い、上奏した。
  • 三代の法では父が死ねば子が継ぎ、兄が終われば弟が及ぶ。夏から漢まで二千年、甥を皇子に立てた例はない。漢の成帝が私意によって定陶王を立て、はじめて三代の伝統の礼が壊れた。宋の仁宗が濮王の子を立て、英宗は即位してから終始濮王を伯とは称さなかった。
  • いま陛下は孝宗が崩じて二年後に生まれ、武宗の大統を継がずに十六年を飛び越えて孝宗を考とするのは、天倫の大義において既に背いている。しかも皇子に立てられたわけでもなく、漢や宋とは異なる。
  • 古来、天子には大宗・小宗はなく、所生・所後の別もない。礼経に載るのは大夫・士の礼であって、帝王に当てはめられない。伯父と父、子と姪はいずれも天経地義であって改められない。いま伯を父とし父を叔とするのは、倫理が常を変えることであり、大きな変事である。
  • 三代の伝統の義を得て、漢・唐の継嗣の私意をはるかに超えるものは祖訓に及ぶものがない。祖訓に「朝廷に皇子なければ必ず兄終わって弟及ぶ」とある以上、位を嗣ぐ者は実に統を継ぐのであって嗣を継ぐのではない。伯はもとより「皇伯考」と称すべきで、父はもとより「皇考」と称すべきで、兄はもとより「皇兄」と称すべきである。
  • いま陛下は獻帝と章聖について既に「本生」の称を除かれ、あらためて臣らに大議を命ぜられた。臣書・臣璁・臣萼・臣獻夫および文武の諸臣はみな議して申す。世に二つの道はなく、人に二つの本はない。孝宗皇帝は伯であるから「皇伯考」と称すべきである。昭聖皇太后は伯母であるから「皇伯母」と称すべきである。獻皇帝は父であるから「皇考」と称すべきである。章聖皇太后は母であるから「聖母」と称すべきである。武宗はなお「皇兄」と称し、荘肅皇后は「皇嫂」と称すべきである。
  • とりわけ願わくは、陛下は孝宗の仁聖の徳を仰いで遵い、昭聖の擁立の功を思い、孝敬をいっそう篤くして終始隔てなくされたい。そうすれば大倫と大統はいずれも帰するところを得る。神主を奉じて別に禰室を立てれば至親を廃さず、尊号を高くしながら太廟に入れなければ正統に関わらない。尊と親はどちらも背かない。
  • ひとえに祖訓を尊び聖経にかない、三代数千年来明らかでなかった典礼を復し、漢・宋の経に背き礼に違う陋習を洗うのは、聖人でなければ誰にできようか、と。
  • 議が上がると詔で天下に布告され、尊称はここに定まった。

顯陵改葬の反対

  • 帝が生みの親を高く尊んでからは、内外から媚びて恩を求める者が続々と現れた。
  • 錦衣百戸の隨全と光禄録事の錢子勛は既に罪で職を奪われていたが、旨に迎合して、獻帝の顯陵の梓宮を北の天壽山に移葬するよう請うた。工部尚書の趙璜らがその誤りを斥け、帝はまた廷議に下した。
  • 席書は廷臣を集めて上言した。顯陵は先帝の遺骸を納めた所であり、軽々しく動かしてはならない。昔、髙皇帝は祖陵を遷さず、文皇帝は孝陵を遷さなかった。隨全らは媚びへつらう小人で、みだりに山陵を論じている。法司に下して取り調べるべきである、と。
  • 帝は「先帝の陵寝は遠くにあり、朕は朝夕に思い望んで哀痛に堪えない。あらためて詳しく議して報せよ」と答えた。席書はまた衆議を集めて不可を極言し、ようやく取りやめとなった。
  • 席書は、大禮が成った以上、天下の期待に応えるものがあるべきだとして、新政十二事を条列して献じた。帝は手厚い旨で答えた。

大同の兵変と人材の推薦

  • 大同で軍が変を起こし、巡撫の張文錦を殺し、總兵官の江桓の印を壊して追い出し、もとの帥である朱振を獄から出して江桓の代わりに立てた。帝はそのまま朱振を任命し、禮部に新しい印を鋳させるよう命じた。席書は不可として討伐を請い、政府と対立した。
  • 当時の執政は費宏・石珤・賈詠であったが、席書は内心よしとしていなかった。そこで楊一清と王守仁の入閣を力説して推薦し、「いま諸大臣はみな中程度の才で、天下の事を計るに足りない。乱を定め時を済うのは王守仁でなければならない」と述べた。帝は「席書は大臣として自ら方策を出して時難を共に済うべきである。中程度の才などと言い逃れするな」と言い、王守仁は結局用いられなかった。

世室の議と晩年

  • 四年、光禄寺丞の何淵が世室を建てて獻皇帝を太廟に祀るよう請い、帝は礼官に集議を命じた。
  • 席書らは議して上げた。『王制』に天子は七廟、三昭三穆とある。周は文王・武王に大きな功徳があったので世室を立て、后稷の廟とともに百世遷さないこととした。我が太祖は四親廟を立て、徳祖を北に置き、のち同堂異室に改めた。祧遷を議するにあたっては太祖を文世室に、太宗を武世室に擬した。いま獻皇帝は藩王から帝号を追崇されたのであって、何淵が太祖・太宗になぞらえて太廟に世室を立てようとするのは、まったく根拠がない、と。返答はなかった。
  • ほどなく張璁が上奏を持って不可を力説し、席書も三度上疏して張璁の議と同じことを述べた。帝は中官をその家に遣わして諭した。席書はまた密疏で切に諫めた。帝は不快として、衆を憚って奸を飾っていると責めた。そこで別に禰廟を立てることが議され、世室の議は結局取りやめとなった。
  • 五年秋、章聖太后が世廟に参ろうとしたとき、礼官の議は帝の意に合わなかった。席書は眼病で休んでいたが上言して、「母后の廟参りは前例のないことで、礼官には実は拠るところがない。ただ聖明の裁量に委ねる」と述べ、あわせて「世廟が成った以上、大赦の典があるべきである。礼を議して流された諸臣をすべて戻されたい。いわゆる万国の歓心を合わせて先王を祀るというのが、天子の大孝である」と請うた。聞き置かれた。
  • 席書は礼を議したことで帝の知遇を得、親しい臣として頼りにされた。はじめ『大禮集議』を進めて太子太保を加えられ、まもなく『獻帝實録』が成って少保に進んだ。寵遇の厚さは輔臣たちも及ばないほどであった。
  • ところが席書は病を得て政務が執れず、たびたび上疏して辞職を願い、羅欽順を後任に推した。帝はそのつど慰留して許さなかった。のち病が篤くなって願いがいっそう強くなると、詔で武英殿大學士を加え、京師に邸宅を賜り、俸給は従来どおりとした。命を聞いたばかりで没した。太傅を贈られ、諡は文襄、一子に尚寳丞の廕を与えられた。異例の待遇であった。

人となりと李鑑の獄

  • 席書は事に当たって思い切りがよかったが、性はかなり偏屈で強情であった。
  • はじめ長沙の人・李鑑が盗賊となり、知府の宋卿が死罪に処した。席書はちょうど湖廣を巡撫していて宋卿の不正な蓄財を暴き、そのついでに宋卿が李鑑を故意に重い罪に落としたと弾劾した。帝が大臣を遣わして調べさせたところ席書の言と違っていたが、席書はこのとき既に寵を得ていたので、李鑑を京に逮えて再審させることになった。
  • 席書は「臣は礼を議して衆の怒りを買ったので、刑官はおおむね宋卿に味方して李鑑の罪を重くしている。法司に勅して雪冤させられたい」と述べた。しかし法司の裁きも前と変わらなかった。帝は席書の意に背くのを重んじて、特に李鑑の死罪を減じて流刑とした。
  • そのほか、陳洸をかばい費宏を排したのは、いずれも私意をほしいままにしたもので、当時の世論に斥けられた。

席春

  • 弟に春と篆がある。
  • 春は庶吉士から御史に任ぜられ、雲南を巡按した。兄が都御史となったので翰林檢討に移り、『武宗實録』の編纂に加わった。完成して官位を進めるべきところ、内閣の費宏が、春は他の官から入ったとして、檢討の劉夔とともに按察僉事に擬した。劉夔ももと御史で、兄の侍郎・劉龍を避けて改任された者である。
  • 席書は激怒して「故事として書の編纂が成って外任に出された例はない」と上疏した。帝は席書のゆえに春を留めて修撰に抜擢し、劉夔も留めて編修に抜擢した。席書はこれによって費宏を怨み、たびたび誹った。
  • 席書が没すると、帝はその礼を議した功を思い、春を翰林學士まで累進させた。
  • 嘉靖十二年、禮部右侍郎から吏部に移った。詔で翰林に堪える者を推挙させたとき、春はもとの翰林である楊惟聰と陳沂を召し戻そうとしたが、尚書の汪鋐が不可としたので、隙が生じた。
  • のちに汪鋐が推挙するとき春に諮らなかったので、春は怒って汪鋐を罵った。汪鋐は、春がかつて楊廷和に付いて礼を議した諸臣を排したことを告発したので、春は職を落とされ、家で没した。

席篆

  • 篆は戸科給事中となった。黔國公の沭崑が按察使の沈恩らを弾劾したとき、篆は同僚の李長と、沭崑の奏には誣告が多いと私語した。李長がそのまま沭崑を弾劾したので、武宗は李長が重臣を誣告したと責めて詔獄に下した。供述が篆に及び、あわせて拘留・処分されて地方に左遷され、夷陵判官となった。
  • 世宗が位を継ぐともとの官に復されたが、着任しないうちに没した。祭祀を賜り、光禄少卿を贈られた。