明史卷一百九十七 列傳第八十五 能浹

出自と宸濠の乱の告発

  • 熊浹は字を悦之といい、南昌の人である。正徳九年の進士で、禮科給事中に任ぜられた。
  • 寧王宸濠が変を起こそうとしていたとき、熊浹は同郷の御史・熊蘭とともに奏を草し、御史の蕭淮に渡して上げさせた。宸濠はにわかに事を起こして結局敗れたが、もとはこの二人が早くから暴いた力による。
  • 松潘の辺境の軍餉を調査に出たとき、副總兵の張傑が江彬の勢いを頼んで巨万の不正蓄財をし、帰順した番人を誘い殺して功と称して辺境に釁を開き、千戸以下を鞭で打ち殺すこと五百人に及び、さらに家人を率いて副使の胡澧を襲ったことがあった。撫按の官も口に出せなかったが、熊浹は着任するとその様子をことごとく暴き、張傑は職を奪われた。

大禮の議

  • 世宗が即位し、追崇の礼をめぐる廷議が定まらなかったとき、熊浹は馳せて上疏して述べた。
  • 陛下は藩から起こって大位に登られた。もし必ず人の後となる説に拠って孝宗を考とし慈壽を母とするならば、興獻の母妃は伯叔父母と称を下げねばならない。陛下が内庭で親しく仕えられるとき、旧来の称のままなのか、それとも今の称に改めるのか。もし旧称のままとしながら后として尊べないのであれば、慈壽に対しては後となる名目だけがあり、母妃に対しては尊崇の大典を欠くことになる。どちらも成り立たない。
  • 臣の愚見では、興獻王は帝号で尊び、別に一廟を建てて、あえて列聖の上に躋らせぬことを示し、母妃は皇太后として尊びながら美称をやや控えて、あえて慈壽と同等にせぬことを示す。これなら大統には妨げがなく、天性の恩も兼ねて尽くせる、と。
  • 疏が届いたときには既に興王と妃を帝・后と称することに決まっており、礼官に下された。
  • 嘉靖のはじめ、右給事中から河南參議に出た。父の喪で帰り、六年に喪が明けて『明倫大典』の編纂に召され、右僉都御史に抜擢されて院の事務を協理した。
  • 翌年四月、大理寺卿に遷り、まもなく右副都御史に遷り、大典が成って左に転じた。八年二月、右都御史に抜擢されて院の事を掌った。

張柱の獄

  • 京師の民・張福が同じ里の張柱が母を殺したと訴え、東厰がこれを上申した。刑部は張柱を死罪としたが、張柱は承服しなかった。張福の姉もまた泣いて「母は張福が殺したのです」と役所に訴え、隣人の証言も同じであった。
  • 詔で郎中の魏應召に再調査させると、張福の罪に改められた。東厰は法司が人の罪をみだりに軽くしたと奏し、帝は怒って魏應召を詔獄に下した。熊浹は魏應召の議を是として当初どおり主張したので、帝はいっそう怒って熊浹の職を奪った。給事中の陸粲と劉希簡が争ったので、帝は激怒して二人とも詔獄に下した。
  • 侍郎の許讃らはそこで張柱を死罪とし、魏應召と隣人はみな充軍とし、張福の姉には杖百を加えた。人々はこれを冤罪とした。
  • 当時、帝はちょうど孝宗・武宗両后の家を深く憎んでいた。張柱は実は武宗の后である夏氏の家の下僕であったから、帝はどうしても殺そうとしたのである。

晩年

  • 熊浹は家居すること十年、帝が承天に行幸して近臣と旧臣を語ったのを機に、召されて南京禮部尚書となり、兵部に移って機務に参贊した。
  • 二十一年、召されて兵部尚書となり都察院の事を掌った。二年おいて許讃に代わって吏部尚書となった。
  • 帝は禁中に乩仙臺を築き、時にその言葉によって威福を決していた。熊浹がその妄を論じたので帝は激怒して罪しようとしたが、以前に礼を議した功があったのですぐには退けなかった。
  • 二品の六年の考課が満ちて太子太保を加えられたが、事に連座して二度俸を奪われた。熊浹は帝の意が最後まで解けないと知り、病と称して辞職を願った。帝は激怒して職を奪い庶民とした。さらに十年して没した。
  • 熊浹は若くして志節があり、身の守りは厳しかった。礼を議したことで顕れたとはいえ、さほど徒党を組まず、とりわけ人材を愛しかばった。それゆえ吏部を去ったとき、善良の輩の多くが惜しんだ。
  • 隆慶のはじめ官を復され、祭葬を賜り、諡は恭肅である。