明史卷一百九十四 列傳第八十二 王廷相

出自と御史としての兵略の建言

  • 王廷相は字を子衡といい、儀封の人である。幼くして文名があった。
  • 𢎞治十五年(1502年)の進士で、庶吉士に選ばれ、兵科給事中に任ぜられた。喪で去った。
  • 正徳のはじめ、喪が明けて京に至ると、劉瑾に陥れられて亳州判官に左遷され、髙淳知縣に移された。
  • 召されて御史となり、上疏して述べた。大盗が四方に起こり、将帥が平定できないのは、将の権が軽くて敵を防げず、兵の機略が粗くて要害を扼せないからである。盗賊の至るところ、郷民は牛酒を捧げ、ひどい者は賊に力を貸す。賊は生殺の権を持つのに将帥は持たないので、兵は命に従わない。臨機の裁量を許し、退却する者は必ず斬るべきである。河南は平坦なので賊は山西に逃げやすく、山西は険阻なのに賊を深く入り込ませている。これは将帥の罪である。もし黄河の渡しに兵を布いて西に行かせず、井陘・天井を分けて扼して東に行かせず、主将が大軍でこれを圧迫すれば、賊は進退窮まり、戦わずして捕らえられよう、と。帝は総督ら諸臣を厳しく責め、その議をすべて採用した。
  • のちに陝西を巡按し、鎮守中官の廖堂を抑えた。讒言を受けたときには既に京畿の学校の監督に移っていたが、捕らえられて詔獄に繋がれ、贛榆丞に左遷された。
  • 四川僉事・山東副使に累進し、いずれも学校を提督した。嘉靖二年、治績が卓越しているとして推挙され、さらに山東右布政使に遷った。右副都御史として四川を巡撫し、芒部の賊・沙保を討ち平らげた。まもなく召されて都察院の事務を執り、兵部左侍郎・右侍郎を歴任し、南京兵部尚書に遷って機務に参贊した。

南京兵部尚書としての弊害除去

  • 以前に進貢の快船を減らせとの詔があったのに、守備太監の賴義がまた増やすよう求めた。王廷相は物の軽重を勘案して船数を定めるよう請い、宣徳以後の伝旨によるもので祖法によらぬものを大幅に削減した。
  • 龍江・大勝・新江・浦子・江淮の五関では守臣が検問にかこつけて利を取り立て、安慶・九江では春秋の閲兵にかこつけて賄賂を求めていたので、王廷相はいずれも廃止を請うた。
  • 草場の蘆課の銀はおおむね中官の楊奇・卜春および魏國公徐鵬舉に着服されていた。王廷相の請いによって楊奇・卜春は逮えて訊問され、徐鵬舉は禄三か月を奪われた。

左都御史・兵部尚書としての職務

  • 入って左都御史となった。上疏して、南京守備の権が大きすぎるので魏國公家の世襲官にすべきではないと述べ、給事中の曽忭も同じ意見を述べたので、徐鵬舉の兵権は解かれた。
  • 二年在職して兵部尚書を加えられ、前官を兼ねたまま團營を提督し、なお都察院の事務も執った。二度の考課が満ちて太子少保を加えられた。
  • 畿内の民が天壽山の陵の樹木を盗んだとき、巡按の楊紹芳は大祀の神御の物を盗んだ律を引いて斬罪とした。王廷相は「大祀の神御の物とは神座の中にある祭器や帷帳の類を指す。律文では陵の木を盗んだ者は杖一百・徒三年にとどまる。いま本来の律を捨てるのは刑の公平ではない」と述べた。旨に忤らって俸一か月を科された。
  • 帝が承天に行幸しようとしたとき、王廷相は諸大臣とともに諫めたが容れられなかった。扈従して帰り、在職九年が満ちて太子太保を加えられた。

綱紀粛正の上言と失脚

  • 雷が奉先殿に落ちたとき、王廷相は言上した。人事が修まってこそ天道は順い、大臣が法を守ってこそ小臣は廉潔になる。いま廉恥の分限が立たず賄賂が横行している。先朝はまだ夜陰の隠れた授受であったが、いまは白昼の掠奪である。大臣が汚れれば小臣はみな真似をし、京官が貪れば地方の官は憚らなくなる。臣は綱紀を司る職にありながらその弊を絶てない。まず自分を罷免されたい、と。これは尚書の嚴嵩・張瓉らを刺すためであった。帝はただ留任を諭しただけであった。
  • はじめ王廷相は六条をもって巡按から戻った御史を考課するよう請うた。帝が足りない点を書き出して憲綱に編めと命じたので、張孚敬・汪鋐が奏した条項と新たに定めた分を合わせて十五事を進め、すべて認められて施行された。
  • 九廟が焼けて修省の詔が下ったとき、王廷相に勅して「御史が地方を巡るのは職責が極めて重い。卿は都察院を統べて久しいのに、六条を定めてから一人も考課で退けていない。今こそ深く反省すべきである」と言われ、王廷相は恐懼して謝罪した。
  • 王廷相は都察院を掌ること最も長く威望があったが、團營を督して郭勛と共に事にあたる際は、その間で逡巡して振るい正すことができなかった。
  • 給事中の李鳳來らが権貴が民の利を奪っていると論じ、上章が都察院に下されたとき、王廷相は五城の御史に檄して実地に調べさせたが、四十日余りも遅れた。給事中の章允賢は王廷相が私に偏り上をないがしろにしていると弾劾した。帝がまさに詰責しようとしたところ、王廷相が御史の調査結果として郭勛の侵奪が最も多いと報じたので、帝は郭勛に自ら申し開きさせた。そこで郭勛を弾劾する者が続出した。郭勛はさらに勅を受領しながら滞留したことで帝の怒りに触れて獄に下され、王廷相は朋党を組んで阿ったと責められ、庶民に落とされた。三年後に没した。
  • 王廷相は博学で議論を好み、経学で名を知られた。星暦・輿図・楽律・河図洛書および周敦頤・邵雍・程氏・張載の書についてもみな論駁するところがあったが、その説はかなり偏っていた。
  • 隆慶のはじめ官を復され、少保を贈られ、諡は肅敏である。

史論

  • 贊に曰く。喬宇は南京を守り、ゆったりと落ち着いて構えながら内では厳しく警備を固めた。大事に当たれる人物と言えよう。
  • 喬宇と孫交らが節を守って公に奉じ、懇切に朝廷で諫争したのは、寵臣の門を塞いで国是を助けようとしたためである。君の信を得て政を行うという点では蹇義・夏原吉に並ぶには至らないが、その清厳で苟且にせず、行いに瑕がなかった点では、前人にもさほど劣らない。
  • 蔣瑤は尚書としての功名が郡を治めたときより見劣りし、王廷相は都察院を掌りながら気力を発揮できなかった。これはおそらく時勢がそうさせたのであろう。