明史卷一百九十四 列傳第八十二 蔣瑤

出自と正徳初年の上疏

  • 蔣瑤は字を粹卿といい、歸安の人である。𢎞治十二年の進士で、行人に任ぜられた。
  • 正徳のとき両京の御史を歴任し、時弊七事を陳べた。その中で、内府軍器局の軍匠は六千人、中官の監督は二人であったのが、いまは六十余人に増え、一人が軍匠三十人を占有しており、他の局も同様である、これでは軍の員数が減らぬはずがない、と述べた。あわせて𫝊奉官および濫りに採用された校尉・勇士も整理すべきだと述べた。
  • 劉瑾は誅されたものの権はなお宦官にあり、旨が下って詰問され、しかも今後は蔣瑤の議のようなものは再度奏するなと言われた。

揚州知府として武宗の南巡に対する

  • まもなく荊州知府として出て黄潭の堤を築き、揚州に移った。
  • 武宗が南巡して揚州に至ったとき、蔣瑤は御用の調達をするだけで贈り物は一切しなかったので、寵臣どもはみな怒った。
  • 江彬が富民の住居を奪って威武副將軍府にしようとしたが、蔣瑤は不可として譲らなかった。江彬は蔣瑤を空き家に閉じ込めて辱め、帝から賜った銅瓜(銅の鎚)で脅したが、蔣瑤は怯まなかった。
  • 帝が漁をして大きな魚を獲り、戯れに「五百金の値打ちだ」と言うと、江彬はすぐに蔣瑤に渡してその代金を求めた。蔣瑤は妻の簪や耳飾り、袿の衣を懐に入れて差し出し、「庫に銭がありません。臣の持ち物はこれだけです」と言った。帝は笑って帰らせた。
  • 府にはもともと瓊花觀があり、瓊花を採れとの詔が下ったが、蔣瑤は「宋の徽宗・欽宗が北へ連れ去られて以来この花は絶えており、いま献ずるものがありません」と述べた。
  • また珍しい物を徴するとの伝旨があったとき、蔣瑤は揚州の産ではないと答えた。帝が「苧の白布も揚州の産ではないのか」と言うと、蔣瑤はやむなく五百疋を献じた。
  • このとき、権勢者・寵臣は揚州が繁華だというので要求するところがないほどであった。蔣瑤がいなければ民はさらに困窮したであろう。
  • 帝が帰るとき蔣瑤は寳應まで扈従したが、中官の邱得が鉄の綱で蔣瑤を縛ること数日、ようやく解かれた。結局臨清まで扈従して帰った。
  • 揚州の人は蔣瑤を見て感涙しない者がなかった。陝西參政に遷るときには、争って財を出して祠を建て祀った。名声はこれによって大いに高まった。

工部尚書としての営建

  • 嘉靖のはじめ湖廣・江西の左右布政使を歴任し、右副都御史として河南を巡撫した。帝が桂萼らに巡撫官の去就を審査させたとき、蔣瑤は帰郷して沙汰を待つよう命ぜられた。
  • のちに工部尚書まで累進し、四郊の工事が完成すると太子少保を加えられた。
  • 西苑の宮殿が完成して帝が宴を設けたとき、蔣瑤と王時中の席が外にあるのを見て、殿内に移させ、皇親を殿の右に移して席を譲らせ、「親を親しむは賢を尊ぶに如かず」と言った。それほど蔣瑤を重んじた。
  • 当時は土木が盛んで年に数百万を費やしたが、蔣瑤の計画はいずれも帝の意にかない、しばしば下賜を受けた。喪で去った。
  • 久しくして南京工部尚書から召されて北の工部に移った。帝が承天に行幸したとき蔣瑤は扈従した。
  • 京師の造営には京軍を役するのが例だったが、多くが豪族に隠し占められていた。この時期は大工事が相次ぎ、年ごとに民を募って役に充てる費用が二百余万に及んだ。蔣瑤がこれを言上し、急を要さないものを停止するよう請うたので、豪族に隠されていた軍がすべて出てきて、募役の費用は大いに減った。
  • 老齢を理由に致仕した。

晩年

  • 蔣瑤は端正剛毅で清廉潔白であった。帰郷してからは狭い路地の奥に静かに住み、尚書の劉麟・顧應祥らと文酒の会を結び、峴山のあたりを逍遥した。
  • 八十九歳で没し、太子太保を贈られ、諡は恭靖である。