明史卷一百九十四 列傳第八十二 劉麟

出自と正徳年間

  • 劉麟は字を元瑞といい、もと饒州安仁の人で、代々南京廣洋衛の副千戸を務めたため、そこに住みついた。
  • 学を積んで文章に長じ、顧璘・徐禎卿とともに江東の三才子と称された。
  • 𢎞治九年(1496年)の進士。言官の龎泮らが獄に下されたとき、劉麟は同年の陸崑とともに上疏して救った。
  • 刑部主事に任ぜられ、員外郎に進み、畿内の囚人を審理して三百九十余人を無罪に戻した。
  • 正徳のはじめ郎中に進み、紹興府知府として出た。劉瑾は劉麟が挨拶に来ないのを恨み、着任わずか五か月で以前の囚人審理の些細な点を口実に庶民に落とした。士民が金を集めて餞別にしようとしたが受けず、人々は小劉祠を建てて漢の劉寵に配して祀った。
  • そこで湖州に寓居し、吳琬・施侃・孫一元・龍霓とともに湖南の五隠と称された。
  • 劉瑾が誅されると西安に補された。父の喪に遭い、吳興の山水を愛して父の柩をそこに葬り、そのまま湖州に住んだ。

巡撫と工部尚書

  • 陝西左參政に起用されて糧儲を督した。都御史の鄧璋が軍を督し、賦を加えて餉に充てようと議したが、劉麟は力争し、折しも陝西の民が闕下に訴え出たので取りやめとなった。まもなく雲南按察使に遷ったが、病と称して帰郷した。
  • 嘉靖のはじめ召されて太僕卿に任ぜられ、右副都御史に進んで保定六府を巡撫した。中官の耿忠が紫荊関を守備して放縦が多かったので、劉麟は弾劾した。天津三衛の屯田課を割き、庫の蓄えを出して河南三衛の軍の月餉に充て、未納分を徴収して償わせるよう請い、いずれも認められた。帝はこれを機に戸部に、中外で未支給の軍餉をすべて補給するよう諭した。
  • 再び病を理由に帰郷した。大理卿に起用され、工部尚書に任ぜられた。
  • 侍衛の軍に衣服・履物が支給されなかったので、錦衣帥の駱安が紅盔軍の例を引いて請うたが、劉麟は不可として譲らず、詔で相当額の銀を給して自ら製作させ、以後五年に一度の支給を恒例とした。
  • 四司の財物はすべて後堂の大庫に納められ、司官が出納にあたって着服が多かったので、劉麟は特に郎官一人を置いて管理させるよう請うた。帝は善しとし、そこで「節慎庫」の名を賜った。
  • さらに財を節する十四事を上奏し、内府の諸監局の不正な支出を削ったので、中官は大いに恨んだ。
  • 顯陵の工事が終わったとき、労役に当たった者はみな官職を望んだが、劉麟は褒賞のみとする案を出したので、小人どもはいっそう怨んだ。
  • 帝が諫官の言を容れて中外の雑多な割り当て工役を停止したとき、劉麟は浙江と蘇州・松江の織造の停止を通牒したが、供御の袍服がその停止分に含まれていたため、中官の吳勲がこれを咎め、劉麟は致仕を強いられた。
  • 久しくして顯陵の殿閣に雨漏りが生じ、さかのぼって咎められ官を落とされた。

晩年と人となり

  • 劉麟は清く身を修め節を曲げず、官にあっては屈しなかった。工部にあっては朝廷のために財を惜しみ費用を切り詰めたが、一年余りで罷免された。
  • 郊外の南坦に住んで詩を作って楽しんだ。守(郡の長官)が台を築き、令(県令)が堂を建ててやり、はじめて憩い遊ぶ場所ができた。
  • 家居すること三十余年、廷臣はしきりに推薦した。
  • 晩年に楼上の住まいを好んだが、建てる力がなかったので、籠の輿を梁に吊るし、その中に身を曲げて臥し、「神樓」と名づけた。文徴明が絵に描いて贈った。
  • 八十七歳で没し、太子少保を贈られ、諡は清恵である。