常州で江彬の党を防ぐ
- 張曰韜は字を席珍といい、莆田の人。正徳十二年(1517年)の進士で、常州推官を授かった。
- 武宗の南巡のとき、江彬はその党を縦にして州県を横行させた。常州に至ろうとしたとき、民は争って逃げ隠れようとした。当時、知府と武進知縣がともに入覲していたので、曰韜が府と県の印を兼ね綰していた。父老を召して「江彬の党が至ったら、汝らは力を尽くして拒め」と約し、また囚徒を釈して乞食たちとともに各々瓦石を用意して待たせた。
- 江彬の党は果たして騎を連ねて来た。父老はまっすぐ境上に遮って言った。常州は近年災に遭って物力は大いに屈しており、あなた方に食わせるものがない。府中にはただ一人の張推官がおり、一銭も入れていない。秣を用意しようにも調える術がない、と。言い終わると江彬の党は他の変があるのではと疑い、やや退いて使いを馳せて江彬に告げた。
- 曰韜はただちに巡按御史に上書して状を言った。御史東郊は歩を運んで常州を過ぎ、「事は迫っている。江彬は他の事にかこつけて君を縛るだろう」と言い、曰韜を自分の舟に登らせて先に発たせ、自らは小舟でその後に従った。江彬の党は果たして大挙して来て曰韜を索めたが、誤って御史の舟を遮った。東郊は舟を遮った者を厳しく捕らえるよう命じながら、陰では緩めさせた。その党は御史が上聞することを恐れてみな散り去り、曰韜は難を免れた。江彬もその党に騒がぬよう戒めたので、これによって常州以南の諸府は安んずることができた。
世宗朝の諫言と死
- 世宗が即位すると召されて御史となった。楊廷和らが織造を争ったとき、曰韜もまた上言した。陛下は閣臣の奏するところはただ主を愛し民を惜しむものだと言われた。これは織造の害を明らかに知っておられるということである。知りながらなお已めないのは、実に大臣への信任が専らでなく、群小が政を執っているからである。古来、群小が内に蒙蔽していながら大臣が外で忠を尽くせた例はない。崔文ら二、三の小人はかつて先朝を濁乱し、今また聖衷を蒙惑して威福を窃み弄んでいる。陛下はなにゆえ彼らに私を逞しくさせ、早く斥け逐われないのか。臣が聞くに、織造の一官は金数万を行ってはじめて得られる。重い資を投じて営んでおきながら、下に償いを責めないなど、あり得ぬことである、と。帝は用いることができなかった。
- 席書が中旨で尚書を拝すると、曰韜は同官の胡瓊とともに各々抗疏して力争した。杖を受けたのちもなお疏を占して奸人陳洸の罪を弾劾し、まもなくついに死んだ。隆慶初に光禄少卿を追贈された。
胡瓊――附伝
- 胡瓊は字を國蕐といい、南平の人。正徳六年(1511年)の進士で、慈谿知縣から入って御史となった。貴州・浙江を按じて声名があった。哭諫して杖を受けて卒し、のち曰韜と同じく官を贈られた。