出自と諫言
- 鄭本公は朔州衛の人。正徳九年(1514年)の進士で、御史を歴た。
- 武宗が不予で国本がまだ立てられていなかったとき、本公は宗室の親賢の者を慎んで択び、東宮に正位させて天下の望を繋ぐよう請うたが返答はなかった。
- 世宗が位を嗣ぎ、冬になって乾清宮が成ると、帝は文蕐殿から入って居った。本公は上言して、思うべき事に六つあると述べた。この宮は八年の営構でひとたび成った。陛下は安きに居って危うきを思い、群小を遠ざけ燕遊を節して一朝の患いに備えられるべきである。妃配を重んじ継嗣を広めて万世の計とされるべきである。終わりを慎むこと始めの如く、兢々業々としてつねに天と祖が臨まれるが如くにされるべきである。言を求めることをいよいよ切にし、政を訪ねることをいよいよ勤めて壅蔽の患いを防がれるべきである。聖心を持して貨と色を遠ざけ、鴆毒に溺れられぬようにすべきである。興作を重んじ財力を惜しみ、永く先朝を鑑とされるべきである、と。帝は嘉して納れた。
- 一月を越えて帝が興獻帝に皇号を加えようとすると、本公は不可を力説した。
- 嘉靖の改元(1522年)、出て遼東を按じ、副總兵張銘・都指揮周輔を弾劾して罷めさせた。還朝して給事中劉最を論救し、旨に忤らって厳しく責められた。
- 嘉靖二年(1523年)十月、太廟の時享に帝が親ら行わなかったので、本公は同官の彭占祺とともに代理を遣わすのは宜しくないと極言した。聞き置くとの返答があった。
大礼の議
- 翌年三月、帝が興獻帝を考として禁中に廟を立てようとすると、本公は同官とともに力争した。陛下は潜邸の日にあっては孝宗の姪、興獻王の子であり、御位に臨まれた日にあっては孝宗の子、興獻帝の姪である。両言で決せられる。大内に廟を立てるに至っては実に不経である。獻帝の霊はすでに太廟に入れず、そのうえ一国の祀を空しく去って大内に託して享けることになる。陛下が太廟に享せられるとき、その文には嗣皇帝と書かれるが、獻帝の廟ではまた何と称されるのか。愛敬と精誠はいずれも属するところがなく、獻帝は蹙然として安んじられまい、と。帝は怒り、朋党の言で政を乱すと責めて俸三箇月を奪った。
- その年六月、席書を禮部尚書とし、張璁・桂萼を京に召した。本公は同官四十四人とともに章を連ねて言った。桂萼が真っ先に乱の階を作り、張璁が重ねて欺罔を逞しくし、黄綰・黄宗明・方獻夫・席書が相次いで踵を接した。尚書の命は中から下され、行き取る旨はすでに罷めたのにまた頒たれた。大臣はこれによって逐われ、言官はこれによって罪を得た。往日の劉瑾・江彬の奸でさえ、流した禍はこれほど酷くはなかった、と。納れられなかった。
- やがて廷臣とともに闕に伏して哭諫し、獄に繋がれ廷杖されたが、職に還された。
- このとき大礼を争った諸御史の中で、本公の言が最も切実で中っていた。
- まもなく通政參議に遷り、嘉靖九年(1530年)まで転じなかった。病を理由に南京への転任を請い、大理寺丞を授けられ、やや遷って南京太僕少卿となり、病と称して帰った。嘉靖二十年(1541年)、言官の邢如黙・賈準らが会薦し、用いる詔が下ったが赴かず、卒した。