明史卷一百九十一 列傳第七十九 薛蕙

薛蕙(字は君采)は毫州の人。十二歳で詩を能くし、正徳九年の進士。刑部主事として武宗の南巡を諫めて杖され、のち吏部考功即中に至った。嘉靖二年、大礼の議が張璁・桂萼と相持して決しないなか、「為人後解」「為人後辨」および張璁・桂萼の論ずる七事の弁、合わせて数万言を上り、公羊・儀禮に拠って「人の後となる者はその子となる」義を論証し、「統を継ぐのであって嗣を継ぐのではない」とする説を五つの点から反駁した。世宗の怒りを買って鎮撫司の考訊を受け、俸三箇月を奪われ、さらに陳洸の誣告で任を解かれて南へ帰った。冤は晴れたが張璁・桂萼が用いられている間は起たず、嘉靖十八年に春坊司直兼翰林檢討に擬されたものの世宗の恨みで沙汰止みとなり、まもなく卒した。学者は西原先生と称した。

年表(5件)
  • 正徳九年1514年進士に及第し刑部主事を授かる
  • 嘉靖二年1523年「為人後解」「為人後辨」など数万言を上って張璁・桂萼を駁す
  • 嘉靖十八年1539年春坊司直兼翰林檢討に擬されるが沙汰止みとなり、まもなく卒する
  • 嘉靖三年1524年冬、大礼が定まると侯廷訓が私に議礼の書を刊して詔獄に下る
  • 嘉靖九年1530年王祿が獻帝廟を安陸に建てるよう請い、官を棄てて帰り民とされる

出自と「為人後」の弁

  • 薛蕙は字を君采といい、毫州の人。十二歳で詩を能くした。正徳九年(1514年)の進士に及第し、刑部主事を授かった。武宗の南巡を諫めて杖され俸を奪われ、まもなく病を理由に帰った。故官に起こされて吏部に改められ、考功即中を歴た。
  • 嘉靖二年(1523年)、廷臣がしばしば大礼を争い、張璁・桂萼らと相持して決しなかった。蕙は「為人後解」「為人後辨」および張璁・桂萼が論ずるところ七事の弁を撰し、合わせて数万言を朝に上った。「解」には上下二篇があり、大宗の義を推し明らかにしている。
  • その「辨」の趣旨は次の通りである。
  • 陛下は祖の体を継ぎ嫡統を承けられたのであって、人の後となる義に合い、坦然として疑いがない。しかるに二、三の臣が経を偽り礼に叛いて上は聖聴を惑わしている。経伝の細かな指すところを彼らは十分の一も見ていないのに、にわかに小知に恃んで誇張した言葉を騁せようとしている。知らずして作る者と言うべきである。
  • 彼らは「陛下は獻帝の奪うべからざる嫡嗣である」と言う。按ずるに漢の石渠の議に「大宗に後がなく族に庶子がなく、自分に嫡子が一人しかない場合、父の嗣を絶って大宗の後とすべきか否か」とあり、戴聖は「大宗は絶やせない。礼に嫡子が後とならぬというのは、庶子に先んじてはならぬというだけである。族に庶子がなければ父を絶って大宗の後とすべきである」と言った。晉の范汪は「小宗を廃せば昭穆は乱れないが、大宗を廃せば昭穆が乱れる。先王が大宗を重んじたのはこのためである。どうして小宗を廃して大宗を継がぬわけにいこうか」と言った。
  • そもそも人の子には嫡庶があっても、親を親しむ心は一つである。しかも礼に嫡子は後とならず庶子が後となれるとするのは、その父母を親しむに厚薄があるからではなく、ただ重を伝え族を収めることが同じでないからである。今の論者は祖禰に推し本づけることを知らず、その父母までで止まっている。これは親を薄くするに忍びずして、祖を遺てるに忍ぶものである。
  • 彼らは「人の後となる者はその子となるというのは漢儒の邪説である」と言う。按ずるにこれは歐陽脩の誤りを踏襲したものである。人の後となる者はその子となるという言葉は公羊に出て、たしかに漢儒の伝えたものであるが、儀禮と実に表裏をなし、古今これを折衷として異論がなかった。もし歐陽脩の説によるなら、礼に悖ること甚だしい。
  • 礼に人の後となる者は斬衰三年とする。これは子が父母に対する喪である。その父母の喪の服でこれに服するのは、子となるのでなくて何であろう。その言の礼に悖る第一である。
  • 傳に「後嗣となった先の祖父母、妻、妻の父母、昆弟、昆弟の子を、子の場合の如くする」とある。その「子の如く」というのは、子となるからにほかならない。傳が明らかに「子の如く」と言っているのに、かえって子とならぬと言う。その言の礼に悖る第二である。
  • また人の後となる者がその子とならぬなら、称呼の際に父と呼ばず伯父・叔父と呼び続けるのか。その言の礼に悖る第三である。
  • また後を立ててその子とならぬなら、古の後を立てた者はみな実際には子とせず、しばらく偽って立てたことになる。それは聖人が偽って人に後を立てることを教えながら、実は後がないということになる。その言の礼に悖る第四である。
  • そもそも後のない者は祖考の祀を絶やすことを重んじるから、後を立てて奉じさせる。今、後嗣となった先を子とすることができないなら、祖考もまた孫とすることができない。どうしてその廟に入りその祀を奉じられようか。その言の礼に悖る第五である。
  • これによって見れば、漢の臣を邪説と名づけるのは、自らを名づけているのではないか。
  • 二、三の臣もまた自らその説が必ず窮することを察したのであろう。そこでまた遁辞を作って唱え、「統と嗣とは同じでない。陛下が二宗を継がれるのは統を継ぐのであって嗣を継ぐのではない」と言う。この一言は先王の「人の後となる」義を廃そうとするものであって、礼に悖ることの最も甚だしいものである。しかもその牽合附会は名実を眩ませる。もし弁じて絶たなければ、後世の禍となろう。
  • 礼に大宗のために後を立てるのは、その統を重んずるからである。統を重んじ絶やすべからざるがゆえに後を立てるのであって、小宗のために後を立てないのは、統が絶えてよければ嗣も継がなくてよいからである。とすれば統を継ぐがゆえに嗣を継ぎ、嗣を継ぐのは統を継ぐためである。ゆえに礼に「人の後となる」というのは嗣を継ぐことを言い、「大宗の後となる」というのは統を継ぐことを言うのであって、統と嗣とは二つあるのではない。何の違いがあろうか。
  • 古来、帝王で入継した者は、必ず人の後となる義を明らかにしてはじめて統を継ぐことができた。後とならなければ子とならず、子とならなければどこから統を得て継げようか。ゆえに後となるとは子となることであり、子となってのちに統を継ぐのであり、またそれによって同宗の覬覦の心を絶つのである。聖人の礼を制するや、善いものではないか。
  • そもそも子となってのちに統を継ぐのは、人の後となる者だけではない。礼に生まれながらにして貴い者はない。天子・諸侯の子であっても、君父から命を受けなければ自ら尊を成すことを敢えてしない。春秋は授受の義を重んじ、子となるには父から受け、臣となるには君から受けるとする。ゆえに穀梁子は「臣子は必ず君父の命を受ける」と言った。この義は君父を尊ぶだけでなく、自らを尊くする所以でもある。君父を尊べば、人もまた己を尊ぶようになるからである。かくすれば義礼は明らかとなり禍乱は亡ぶ。
  • 今の説者は「倫序として立つべきだからそのまま立ったのだ」と言うが、どうして礼と春秋の意を知っていようか。
  • 前代の君に、兄が終わって弟が継ぎ、姪が終わって伯叔父が継いだ例が間々あるが、これは変事に遭って正しくないものである。それでも多くは先君の嗣であって、先君は己に対して考であり、己は先君に対して子である。ゆえに後君を考とできず、また両統二父の嫌いもない。晉の哀帝、唐の宣宗がこれである。あるいは諸王が入って嗣いだ場合でも、なお諸王を考として天子を考としなかった例はない。
  • 陛下は天倫において武宗に先んぜず、正統は獻帝から出たものではない。是非予奪はきわめて弁じやすいのに、二、三の臣は猥りに変事に遭った正しくない挙になぞらえようとする。ゆえに礼に悖ることのはなはだしいものと言うのである。
  • その他弁じた七事も、おおむねこれに倣うものであった。

譴責と晩年

  • 書が奏せられると天子は大いに怒り、鎮撫司に下して考訊させたが、まもなく赦して出し、俸三箇月を奪った。
  • 折しも給事中陳洸が外に転じたのを、事は文選即夏良勝および蕙によるものと疑った。夏良勝はすでに訐かれて斥けられていたが、蕙はまだ在職していた。当時、亳州知州顔木がちょうど罪に坐していたので、蕙が顔木と同年で通じており、奸利があるのではないかと誣告した。章が所司に下され、蕙も奏して弁じたが、帝は聴かず、任を解いて勘問を待つよう命じた。蕙はそこで南に帰った。
  • やがて事が明らかになり、吏部はしばしば文書を移して蕙の起用を促したが、蕙は張璁・桂萼らが事を用いているのを見て堅く臥して起とうとしなかった。
  • 嘉靖十八年(1539年)、官僚を選ぶ詔があり、蕙を春坊司直兼翰林檢討に擬したが、帝はなお前の恨みのゆえに沙汰止みとし、蕙もまた卒した。
  • 蕙は容貌は痩せて気は清く、身を持することは峻厳潔白で、書物に読まぬものがなかった。学者はその学行を重んじ、西原先王と称した。

胡侍・王祿・侯廷訓――附伝

  • このとき廷臣は力めて大礼を持し、張璁・桂萼が異議を建てると朝廷こぞってこれを非とした。廷議に与ることができないまま張璁・桂萼によって罪を得た者に、なお胡侍・王祿・侯廷訓がいる。
  • 胡侍は寧夏の人。進士に及第し、官は鴻臚少卿を歴た。張璁・桂萼が學士に抜擢されると、侍は二人が礼を越え経に背いていると弾劾し、その奏に拠って反覆論弁すること千余言に及んだ。帝は怒って逮捕して治めるよう命じたが、言官が論救したので潞州同知に謫された。瀋府の宗室勛注が事あって侍を恨み、侍が諸生に出した試題が譏刺しており、しかも大礼を謗っていると奏した。京に逮えられて訊問され、斥けられて民とされた。
  • 王祿は新城の人。郷試に合格して福建平和知縣となった。嘉靖九年(1530年)、疏を上って、獻帝の廟を安陸に建て、崇仁王を封じてその祀を主らせるべきで、獻帝を考とし孝宗を伯とするのは二本の嫌いに渉ること、また宗藩の子で幼くして聡明な者は宮中に養って儲貳の選に備えるべきことを請うた。疏を奏するとそのまま官を棄てて帰った。按臣に逮えて治めるよう命じられ、これも斥けられて民とされた。
  • 侯廷訓は樂清の人。張璁と同郡で同じく進士に及第したが、持論は合わなかった。初めて釈褐するとすぐ上疏して孝宗を考とするよう請い、あわせて藩邸の旧臣を私すべきでないと言った。語は最も切直であった。南京禮部主事に除せられた。嘉靖三年(1524年)冬、大礼が定まると廷訓は心中これを非とし、私かに自著の議礼の書を刊して密かに京師に寄せた。詔獄に下されて拷訊された。子の侯一元は年十三で闕に伏して冤を訟え、釈されることを得た。のち官に起こされて漳南僉事に至ったが、貪虐によって弾劾され民とされた。侯一元は進士に及第し、官は江西布政使に至った。

史論

  • 贊に言う。大礼の議は楊廷和がこれを唱え、朝廷こぞって声を同じくした。おおむね宋の司馬光・程頤の濮園の議に本づいている。しかし英宗は宮中で育てられ名称がかねて定まっていたのに対し、世宗は詔を奉じて位を嗣ぎ武宗の後を承けたのであって、事勢はそれぞれ異なる。諸臣はただ先賢大儒の成説が拠るべきものと見て、天下後世に罪を得まいとしただけで、世宗のために熟慮し審らかに処し、情理を斟酌して至当を求める余裕がなかった。争えば争うほど失うところは深くなった。惜しいことである。