明史卷一百九十二 列傳第八十 楊愼

篇首の立伝者一覧

  • 楊愼(王元正を附伝とする)
  • 王思(王相を附伝とする)
  • 張翀
  • 劉濟
  • 安磐
  • 張漢卿
  • 張原
  • 毛玉(裴紹宗を附伝とする)
  • 王時柯(余翺を附伝とする)
  • 鄭本公
  • 張曰韜(胡瓊を附伝とする)
  • 楊淮(申辰を附伝とする)
  • 張澯(仵瑜・臧應奎・胡璉・余禎・李可登・安璽・殷承叙を附伝とする)
  • 郭楠(俞敬・李繼先・王懋を附伝とする)

出自と武宗朝の諫言

  • 楊愼は字を用修といい、新都の人。少師楊廷和の子である。
  • 年二十四で正徳六年(1511年)の殿試に第一で及第し、翰林修撰を授かった。継母の喪に服し、明けると故官に起こされた。
  • 正徳十二年(1517年)八月、武宗が微行して初めて居庸關を出たとき、愼は抗疏して切諫し、まもなく病を理由に帰った。

世宗朝の講筵と大礼の議

  • 世宗が位を嗣ぐと起こされて經筵講官を務めた。かつて舜典を講じたとき、聖人が贖刑を設けたのは小さな過ちに施すためであって、民に自ら新たにさせるものである。元悪大奸に至っては贖うべき理はない、と述べた。当時、大璫の張鋭・于經が死を論ぜられ、金銀を進めて宥しを得たと言う者があったので、これに及んだのである。
  • 嘉靖三年(1524年)、帝が桂萼・張璁の言を納れて翰林學士に召したとき、慎は同列三十六人とともに上言した。臣らは桂萼らと学術が異なり議論もまた異なる。臣らの執るところは程頤・朱熹の説であり、桂萼らの執るところは冷褒・段猶の余流である。今、陛下はすでに桂萼らを超擢し、臣らの言を是とされない。臣らは彼らと同列たり得ない。罷斥を賜りたい、と。帝は怒って厳しく責め、俸を停めることに差を設けた。
  • 一月を越えて、また學士豐熙らとともに疏を上って諫めたが、命を得られなかった。廷臣とともに左順門に伏して力諫すると、帝は震怒して首謀者八人を捕らえ詔獄に下すよう命じた。そこで慎および檢討王元正らは門を揺すって大いに哭き、声は殿庭にまで徹した。帝はいよいよ怒り、ことごとく詔獄に下して廷杖した。
  • 十日を閲したのち、「これより前に朝が退けて群臣がすでに散っていたのに、慎・王元正および給事中劉濟・安磐・張漢卿・張原、御史王時柯が実際に衆を糾合して伏し哭いたのだ」と言う者があった。そこで七人を重ねて廷で杖した。慎・王元正・劉濟はともに謫戍され、残りは籍を削られた。慎は雲南永昌衛に配された。
  • 先に楊廷和が国を当たっていたとき、錦衣の冒濫の官をことごとく斥けていた。ここに至って彼らは道々で待ち伏せて慎を害そうとした。慎はこれを知って謹んで備え、臨清に至ってようやく散り去った。病を扶けて万里を馳せ、疲弊はなはだしく、戍所に着いたときは起き上がれぬほどであった。
  • 嘉靖五年(1526年)、廷和の病を聞いて馳せて家に至った。廷和は喜んで病が癒え、慎は永昌に還った。尋甸の安銓・武定の鳳朝文が乱を起こしたと聞くと、僮奴および歩卒百余を率いて木密所に馳せ赴き、守臣とともに賊を撃ち破った。
  • 嘉靖八年(1529年)、廷和の訃を聞き、走って巡撫歐陽重に告げ、朝に請うて帰って葬ることを得た。葬り終わるとまた還った。これより、あるいは蜀に帰り、あるいは雲南の会城に居り、あるいは戍所に留まったが、大吏はみな善く遇した。年七十になって蜀に還ったとき、巡撫が四人の指揮を遣わして逮え還した。
  • 嘉靖三十八年(1559年)七月に卒した。年七十二。

学問と著述

  • 愼は幼くして警敏で、十一歳で詩を能くし、十二歳で古戰場文・過秦論を擬作して長老を驚かせた。京に入って黄葉詩を賦すと、李東陽が見て嗟賞し、門下で学ばせた。
  • 翰林にあったとき、武宗が欽天監および翰林に「星に注張というのがあり、また汪張とも作る。これは何の星か」と問うた。衆は答えられなかったが、愼は「柳星です」と答え、周禮・史記・漢書を歴挙して復した。
  • 武宗實録の修纂に参与したときは、事は必ず直書した。総裁の蒋冕・費宏はことごとく草稿を付して削定させた。
  • かつて使いを奉じて鎮江を過ぎたとき、楊一清に謁して所蔵の書を閲し、疑義を叩いたところ、一清はみな暗誦した。愼は驚き異として、いよいよ古学に力を尽くした。
  • 荒遠の地に投じられてからは暇が多く、書に読まぬものがなかった。かつて人に「資性は恃むに足りない。日々新たにする徳業は学問の中から来るべきである」と語った。ゆえに学を好み理を窮めること、老いていよいよ篤かった。
  • 世宗は議礼のゆえにその父子を憎むこと甚だしく、いつも「慎はどうしているか」と問うた。閣臣が老病と答えると、ようやく解けた。慎はこれを聞くと、いよいよ酒を縦にして自らを放った。
  • 明の世で記誦の博さ、著作の富かさは慎を第一とする。詩文のほか雑著は百余種に至り、ともに世に行われている。隆慶初に光禄大夫を贈られ、天啟中に文憲と追諡された。

王元正――附伝

  • 王元正は字を舜卿といい、盩厔の人。愼と同年の進士で、庶吉士から檢討を授かった。
  • 武宗が宣府・大同に幸したとき、五子の歌を述べて諷した。
  • ついに大礼を争ったために茂州に謫戍され、そこで卒した。隆慶初に修撰を贈られた。