出自と諫言
- 徐文華は字を用光といい、嘉定州の人。正徳三年(1508年)の進士に及第し、大理評事を授かり、監察御史に抜擢された。
- 貴州を巡按したとき、乖西の苗の阿雜らが乱を起こしたので、巡撫魏英とともにこれを討ち、寨六百三十を破った。璽書で奨労された。
- 江西副使胡世寧が寧王宸濠を論じたことに坐して詔獄に繋がれると、文華は抗疏して救った。世寧は上は聖朝のため、下は宗室のために誠を竭くし憤りを発した。言葉が口を離れたばかりで禍患がこれに随った。哀れむべきである。寧王の威勢は日に張り、隠患は日に甚だしい。今これを抑えなければ、際限がなくなろう。まして世寧を重法に置いて天下の口を杜ぎ、忠鯁の気を奪い、朝廷の勢を弱め、宗藩の心を開き、意外の変を招くことは、みな今日から始まる、と。納れられなかった。
- 帝が中官劉允を遣わして烏斯藏に仏を迎えさせたとき、文華は力めて諫めたが返答はなかった。
- 馬昂が妊娠している妹を帝に納れると、また疏を上って諫めた。中人の家でさえ再婚の婦を娶らない。陛下は万乗の至尊でありながらこの挙がある。心に返せば安んじられず、口に宣べれば順わず、天下後世に伝われば醜とすべきである。誰が陛下にこれを進めたのか。その罪は族するに値する。万一防閑が疎かで、不幸にも李園・呂不韋のような徒が隙に乗ずれば、些細な事では済まない。今、馬昂の兄弟子姪は禁闥に出入りし、陛下は等威を降して彼らと服を乱して雑坐し、あるいは起き伏しを共にしておられる。祖宗の法を壊すことこれより甚だしいものはない。馬姫は内に寵を専らにし、馬昂らは外に権を弄している。禍機がひそかに発すれば言い尽くせぬことになろう。早く誅して禍の源を絶たれたい、と。これも返答はなかった。
- 文華はしばしば直言を進めたので、帝および諸近倖はみなこれを恨んだ。折しも文華が宗廟の礼儀について、祧廟・禘祫・特享・出主・祔食の五事を条上した。経義を考証していずれも施行できるものであったが、帝は怒り、位を出て妄言したと責めて章を所司に下した。礼官は経術に暗く、また帝の意に阿って、文華の言は非であると奏した。詔獄に下され、黜けられて民とされた。正徳十一年(1516年)十月のことである。
世宗朝の大礼の議と晩年
- 世宗が即位すると故官に起こされ、河南按察副使を歴た。嘉靖二年(1523年)、治績が卓異であるとして挙げられ、入って大理右少卿となり、まもなく左に転じた。
- 当時ちょうど興獻帝の大礼が議されており、文華はしばしば諸大臣とともに力争した。翌年七月には廷臣に率先して闕に伏し哭諫し、俸四箇月を停められた。
- のち席書・張璁・桂萼・方獻夫が廷臣を会して大いに議したとき、文華は汪偉・鄭岳とともになお力争した。武定侯郭勛がにわかに「祖訓はこの通り、古礼はこの通りだ」と言い、張璁らは「大臣が君に事えるには、その美を将順すべきである」と言って、議はそこで定まった。
- 廟主を改題するにあたり、文華は諫めて言った。孝宗には祖の道がある。伯考と称すべきでない。武宗には父の道がある。兄と称すべきでない。むしろ端的に孝宗敬皇帝・武宗毅皇帝と称すれば両全して害がない、と。疏が入ると重ねて俸を奪うよう命じられた。
- 嘉靖六年(1527年)秋、李福達の獄が起こった。獄を主る張璁・桂萼・方獻夫は議礼のことで文華らを恨んでいたので、獄詞をことごとく覆し、文華と諸法官を獄に下した。獄が成ると、文華は御史に阿附して人を殺したと責められ、遼陽に遣戍された。赦に遇ったが道中で卒した。隆慶初に左僉都御史を贈られた。
- 大學士毛紀・侍即何孟春が位を去って以来、先に大礼を争った諸大臣はあるいは曖昧に旨に順ったが、文華だけは前の議を堅く守って変えなかった。その譴責を受けたのは罪によるものではなく、士論は深くこれを惜しんだ。