明史卷一百八十八 列傳第七十六 石天柱

乾清宮の火災と馬氏入宮の諫止

  • 石天柱は字を季瞻といい、岳池の人。正徳三年(1508年)の進士。給事中に任じられるはずのところ、吏科の李憲が御史の例にならって一年の試職とするよう請うたので、户科試給事中を授けられた。
  • 乾清宮が焼けたとき上言した。「今日、外には皇店を並べ、内には酒館を張り、番僧を寵信してその鬼教に従い、辺卒を招き集めてその衣装を真似ておられます。はなはだしきは兄弟の契りを結んで尊卑もありません。しばしば深宮を離れて郊外を駆け回り、章疏は棚上げにされ、朝に出られるのは月に二、三度、老成の臣を無用の贅物と見なし、義子を心腹として遇されます。時節の祭享には自ら臨まれず、母后のもとにも稀にしか参られない。皇子のしるしがまだ輝かず、儲位が久しく空いていることを思われないのですか。宮中に常におられず、宗室から選び置くこともされない。それでどうして禍の根を消し、長久を期せましょうか」。
  • たびたび遷って工科都給事中となった。正徳十一年(1516年)、都督の馬昻がすでに身ごもっていた妹を献じ、帝がこれを寵愛したので、石天柱は同官を率いて連署で論じ立てたが返答はなかった。
  • そこでまた疏を上げて述べた。「臣らが孕婦を出すよう請いましたのに、まだご裁可を賜りません。ひそかに陛下のお心は、これを己の子として立てようとされているのではないかと疑います。秦は呂を嬴に取り替えて嬴が亡び、晉は牛を馬に取り替えて馬が滅びました。あの二君は知らずして奸計に陥ったのです。陛下もそれをなさるというのですか。天位はこの上なく尊く、神明の胤でさえ担うのは容易でないのに、まして卑しい者の子です。かりに陛下の威力で一時それが成っても、後日、諸王・宗室が祖宗の基業を他人に渡すのを座視しましょうか。内外の大臣がその朝廷に頭を下げて立ちましょうか。急ぎ出して宮禁を清め、天下の疑いを消されたい」。ついに返答はなかった。
  • 泰山に碧霞元君の祠があり、中官の黎鑑が香銭を集めて修繕費に充てたいと請うた。石天柱は「祀典には東嶽の神があるだけで、碧霞元君などというものはない。淫祀は非礼であり、許すべきでない」と述べた。
  • 正徳十二年(1517年)四月、詔で西安門外の鳴玉・積慶の二坊の民家を毀って何か造営しようとしたので、石天柱らは疏で中止を請うた。帝はいずれも顧みなかった。
  • その年、帝ははじめて塞外に巡遊し、宣府に鎮國府を営んだ。石天柱は同官を率いて力を尽くして諫めた。

血書の上疏と晩年

  • 孝貞純皇后を葬ろうとしたとき、帝は土を起こす(陵の工事を始める)ことを名目に、再び巡幸しようとした。石天柱は、帝の遊びは度を越しており、廷臣が諫めても帝の意は翻らないと思い、感動させる手立てを考えて、血を刺して疏を草した。その趣旨は次のとおり。
  • 臣がひそかに思いますに、臣の身を生んだのは臣の親であり、臣の身を成したのは累朝の恩であります。身を成した恩に感じ、それを陛下に報いたいと願うのが臣の心です。それゆえ臣の血を刺して臣の心を写し、臣の愚かな忠を明らかにし、陛下の憐れみと察しを願います。
  • 数年来、星の変、地震、大水、異常な凶作など、災異は数えきれないのに陛下は悟られず、禍は太皇太后にまで及びました。天の意は、陛下が喪服の中で過ちを悔い自ら改め、大業を保たれることを望むものです。それでもなお悟られなければ、天の意も尽きてしまうかもしれません。
  • 喪礼は大事であり、人の子として自ら尽くすべきものです。陛下が太皇太后に孝を尽くせないなら、群臣も陛下に忠を尽くせません。忠でなければ至らぬところはなく、にわかに変事が起これば人心は瓦解します。そもそも大位は奸人が狙うものです。昔、太康は洛汭に狩りし、煬帝は江都に行幸して、いずれも敗れを招きました。鑑とせずにおられましょうか。
  • 今や朝廷は空しく、市も空しく、倉廩も空しく、辺境も空しい。天下は誰もが危亡の禍を知っているのに、ただ陛下だけがご存じない。治乱安危はこの度の行くか止まるかにかかっています。これが臣の心を痛め陛下のために惜しむところであり、重ねて死を冒して陛下に申し上げる次第です。
  • 全部で数千言に及んだ。石天柱が血を刺したときは、家人に止められるのを恐れて密室に籠もり、妻子さえ知らなかった。上呈するとすぐ服を改めて処罰を待った。聞く者は皆胸を打たれたが、帝は悟らなかった。
  • 一月余りして、兵部尚書の王瓊が哈密の件にかこつけて都御史の彭澤を殺そうとし、廷臣が集議した。王瓊は勢い込んで待ち構え、皆は発言できなかったが、石天柱は同官の王爌とともに彭澤に罪のないことを力説したので、罷免されて民とされるにとどまった。王瓊は怒って中旨を取り、二人を外に出した。石天柱は臨安推官となった。
  • 世宗が即位すると召されてもとの職に復し、大理丞に遷ったが、まもなく卒した。久しくして子が恤みを請い、特に祭を賜った。

史論

  • 贊に曰く――諫臣の職は悪を糾し過ちを正すことにある。諸臣は遊興に耽ることを戒め、権幸を斥け、義を引いて力争した。その職を辱めなかったといえる。武宗は君主としての徳こそ荒れていたが、徐文溥は遠地への追放にとどまり、関に入ったのち張欽を罪しなかった。その天性はもとより残暴酷烈な者の類ではない。しかし義子や宦官が権を独占して奸を働き、刑具が宮廷に交錯し、忠直の士が牢獄で痛みを負った。逆鱗に触れた者はなお生き延びられたが、宦官を除こうとした者は必ず死地に陥った。元気は日ごとに削られ、朝野は震え驚き、それゆえ国祚は延びず、皇統はあやうく中絶しかけた。風俗の乱れと過ちを戒める訓えは、まことに切実ではないか。